Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『ヒューゴの不思議な発明(Hugo)』―壊れたものにも、もう一度動き出す理由がある

 

巨大な時計の歯車が回り続ける、1930年代のパリ。

駅の壁の向こうには、人々に知られることなく時計を動かし続けている一人の少年がいました。

『ヒューゴの不思議な発明』は、『タクシードライバー』『グッドフェローズ』『ディパーテッド』などで知られるマーティン・スコセッシ監督が手がけた、どこか意外にも感じられるファンタジー作品です。

しかし物語を最後まで見届けると、本作が非常に「スコセッシらしい映画」であることにも気づかされます。

なぜなら、これは孤独な少年の冒険物語であると同時に、映画を愛し、映画の歴史を守ろうとする人々へ贈られたラブレターでもあるからです。

時計台、雪のパリ、複雑に噛み合う歯車、不思議な機械人形。

美しい映像に包まれた物語の中心にいるのは、父を亡くし、自分の居場所を失った少年ヒューゴです。

そして彼が修理しようとしている一体の機械人形が、やがて忘れ去られていた映画の歴史と、一人の男の失われた夢へとつながっていきます。

 

あらすじ(ネタバレなし)

1930年代のパリ。

孤児となった少年ヒューゴ・カブレ(エイサ・バターフィールド)は、モンパルナス駅の時計台の内部に身を隠しながら暮らしていました。

駅の巨大な時計を管理し、人々に存在を知られないよう生活するヒューゴ。

そんな彼が何より大切にしているのが、亡き父(ジュード・ロウ)が遺した一体の**機械人形**でした。

父とともに修理していたその機械人形には、何か特別な秘密が隠されているようでした。

ヒューゴは「父からのメッセージが残されているのではないか」と信じ、駅の玩具店から部品を盗みながら修理を続けています。

ところがある日、玩具店の主人ジョルジュ(ベン・キングズレー)に盗みを見つけられ、大切な手帳まで取り上げられてしまいます。

手帳には、父とヒューゴが記録していた機械人形の修理方法が描かれていました。

何とか取り戻そうとするヒューゴは、ジョルジュの養女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と出会います。

本が大好きで好奇心旺盛なイザベルと、機械を修理することに長けたヒューゴ。

やがて二人は仲良くなっていきます。

そしてある日、ヒューゴはイザベルが身につけているペンダントに目を奪われます。

そこには、機械人形を動かすために必要だったハート型の鍵がついていたのです。

二人がその鍵を使うと、長い間動かなかった機械人形が突然動き始めます。

機械人形が描いたのは、月の顔にロケットが突き刺さっている奇妙な絵。

さらにその絵には、ある人物の名前が記されていました。

ジョルジュ・メリエス。

その名前こそ、イザベルの養父である玩具店の主人ジョルジュの名前でした。

なぜ機械人形は彼の名前を知っているのか。

そして、なぜジョルジュは過去について語ろうとしないのか。

少年が父の面影を求めて修理した一体の機械人形から、やがて映画そのものの歴史に埋もれていた物語が動き始めます。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みま

『ヒューゴの不思議な発明』を初めて観ると、マーティン・スコセッシ監督の作品とは思えないほどファンタジー色の強い映画に感じます。

雪のパリ、駅舎の時計、巨大な歯車、秘密の通路、機械人形。

まるで児童文学の挿絵がそのまま動き出したような世界です。

特に映像の美しさは印象的で、時計の内部に広がる無数の歯車や駅構内を行き交う人々まで、ひとつの巨大な機械のように描かれています。

しかし、物語がジョルジュ・メリエスの過去へ踏み込んでいくと、この作品の本当の姿が見えてきます。

これは単なる少年向けファンタジーではありません。

「映画はなぜ残されなければならないのか」を描いた映画なのだと思います。

本作で重要なのが「修理」という言葉です。

ヒューゴは機械を修理することが得意です。

壊れた玩具も時計も、構造さえ理解できれば元通りにすることができます。

そして父が遺した機械人形についても、ヒューゴは修理すれば父からの何らかのメッセージを受け取れるのではないかと信じています。

しかし考えてみれば、この映画で最も「壊れている」のは機械人形ではありません。

父を失ったヒューゴ自身です。

そしてもう一人。

かつて夢に満ちた映画を作り続けながら、そのすべてを失ったジョルジュ・メリエスもまた、心のどこかが止まってしまった人物です。

つまり本作では、

ヒューゴ → 機械人形を修理する

という物語が、

機械人形 → ヒューゴとメリエスを結びつける

という物語へと反転していきます。

そして最終的には、

ヒューゴ → メリエスの人生をもう一度動かす

という物語へ変化していきます。

この構造がとても美しいのです。

本作が一気に「映画についての映画」へ変わるのが、ジョルジュ・メリエスの正体が明らかになってからです。

玩具店で気難しそうに働いていた老人。

しかし彼はかつて、映画という新しい表現に魅了され、自ら撮影所を作り、数多くの幻想的な作品を生み出した映画史の先駆者でした。

けれど時代が変わり、戦争が起こり、人々が求めるものも変わっていきます。

メリエスの映画は忘れられ、フィルムの多くは失われていきます。

かつて人々に夢を見せていた男が、自分自身の夢を信じられなくなってしまった。

ここにはとても切ないものがあります。

だからこそ、ヒューゴが直した機械人形がメリエスの過去を再び呼び起こす展開には大きな意味があります。

この物語をマーティン・スコセッシが映画化したことにも、大きな意味を感じます。

スコセッシは映画史そのものへの深い愛情を持つ映画監督です。

その彼が、映画の黎明期に「映画で夢を見る」という可能性を広げたジョルジュ・メリエスを物語の中心に置いている。

そう考えると、『ヒューゴの不思議な発明』そのものが、過去の映画を現代へつなぐ巨大な「修復装置」のようにも見えてきます。

映画は上映されなくなれば、人々の記憶から消えてしまいます。

フィルムが失われれば、その作品を見ることさえできなくなります。

しかし誰かが見つけ、修復し、語り継ぐことで再びスクリーンに光が灯ります。

それは、ヒューゴが機械人形を修理する行為とまったく同じです。

壊れたもの、忘れられたものを、もう一度動かす。

これこそが本作を貫いているテーマなのではないでしょうか。

一方で、ヒューマンドラマとして見ると、物語そのものは比較的シンプルです。

駅の公安官との追いかけっこなどコミカルな要素も多く、メリエスの物語にたどり着くまでには少し時間がかかります。

そのため、人によっては物語の密度がやや薄く感じられる部分もあると思います。

それでも作品を支えているのが、映像の力と俳優たちの存在です。

時計台から見えるパリの街並み。

駅を行き交う人々。

複雑に回転する巨大な歯車。

そしてメリエスが作り上げた幻想的な映画世界。

エイサ・バターフィールドとクロエ・グレース・モレッツの初々しい演技に、ベン・キングズレーをはじめとする熟練した俳優たちの演技が加わることで、物語に温かさと重みが生まれています。

何よりこの作品には、「映画を見ることは魔法を見ることだった」時代への憧れがあります。

現在では映像で何でも表現できることに慣れてしまいました。

しかし、スクリーンの中でロケットが月へ飛び、人物が突然消え、現実には存在しない世界が動き出した時代。

当時の観客にとって、それは本当に魔法だったのでしょう。

『ヒューゴの不思議な発明』は、その驚きを現代の観客にもう一度思い出させてくれる映画なのだと思います。

 

演技

エイサ・バターフィールド/ヒューゴ・カブレ

ヒューゴを演じるエイサ・バターフィールドは、孤独を抱えながらも決して希望を手放さない少年を繊細に演じています。

特に印象的なのは、大げさに悲しみを表現しないところです。

父を亡くし、叔父までいなくなり、一人で生きなければならないヒューゴ。

それでも彼は泣き続けるのではなく、時計を動かし、機械人形を修理し続けます。

その「何かを直し続けなければ自分自身まで止まってしまう」というような危うさが、バターフィールドの大きな瞳から伝わってきます。

クロエ・グレース・モレッツ/イザベル

イザベルを演じるクロエ・グレース・モレッツも、とても魅力的です。

本の中の冒険に憧れながら、自分自身には冒険が起こらないと思っている少女。

そんな彼女がヒューゴと出会い、初めて映画を知り、やがてメリエスの過去へと踏み込んでいきます。

ヒューゴとは対照的に明るく好奇心旺盛で、物語全体に軽やかさを与えています。

まだ若い二人の初々しさが、本作のファンタジー的な世界観にもよく合っています。

ベン・キングズレー/ジョルジュ・メリエス

そして、この映画の感情的な中心にいるのはベン・キングズレーです。

序盤では気難しい玩具屋の老人として登場します。

しかし彼の過去が明らかになるにつれ、その表情の意味が変わって見えてきます。

夢を失った人間は、必ずしも泣いたり怒ったりするわけではありません。

ただ、その夢について語らなくなる。

キングズレーは、そんなメリエスの「諦め」を静かな演技で表現しています。

だからこそ終盤、忘れられていた自分の映画が再び人々の前で上映され、自分の仕事が認められる場面には大きな感動があります。

ヒューゴが機械人形を直したように、メリエスの心もまた、少しずつ修復されていったのだと思います。

 

この映画がおすすめなひと

  • 映画そのものが好きな人
  • 映画史やクラシック映画に興味がある人
  • ジョルジュ・メリエスや『月世界旅行』を知っている人、または知りたい人
  • 美しい映像のファンタジーが好きな人
  • 少年少女の冒険物語が好きな人
  • 家族で楽しめる作品を探している人
  • 「喪失から再び前へ進む」物語が好きな人
  • エイサ・バターフィールド、クロエ・グレース・モレッツ、ベン・キングズレーが好きな人
  • マーティン・スコセッシ監督のいつもとは違った一面を見てみたい人

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.5 / 5.0
IMDb:★ 7.5 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

※配信状況は変わる場合があります。視聴前に各サービスで最新の配信状況をご確認ください。

  • U-NEXT
  • Amazon Prime Video(レンタル)

 

ヒューゴの不思議な発明 (字幕版)

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  • エイサ・バターフィールド
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『オフィシャル・シークレット(Official Secrets)』―「国を守る」とは、政府に従うことなのか

 

もし、自分の仕事を通して「このままでは戦争が始まるかもしれない」と知ってしまったら。

しかも、それを止めるためには、職務上絶対に守らなければならない国家機密を外部へ漏らすしかないとしたら。

あなたなら、どうするでしょうか。

『オフィシャル・シークレット』は、2003年のイラク戦争開戦直前に実際に起きた内部告発事件をもとに描かれた政治サスペンスです。

本作が興味深いのは、キャサリンを単純な「正義の英雄」として描くだけではないところです。

彼女の行為は明らかな国家機密の漏洩です。しかし彼女自身は、それを国家への裏切りではなく、むしろ自分の国が誤った戦争へ進むことを防ぐための行動だと考えていました。

政府に従うことと、国を愛することは、本当に同じなのでしょうか。

静かな映画ですが、その問いは驚くほど重く響きます。

 

あらすじ(ネタバレなし)

2003年、イギリス。

キャサリン・ガン(キーラ・ナイトレイ)は、政府通信本部(GCHQ)で働く職員でした。

当時、アメリカとイギリスはイラクへの軍事行動を進めようとしていましたが、国連安全保障理事会で十分な支持を得ることが大きな課題となっていました。

そんなある日、キャサリンは職場で一通の極秘メールを目にします。

そこには、アメリカ側がイギリスの情報機関にも協力を求め、国連安全保障理事会の非常任理事国に対して通信傍受を行おうとしていることが記されていました。

その目的は、各国の動向を探り、イラクへの軍事行動を支持する決議を成立させるために有利な情報を得ること。

イラク戦争そのものに強い疑問を抱いていたキャサリンは、その内容に衝撃を受けます。

しかし彼女は国家機密を扱う職員です。

知り得た情報を外部へ漏らすことは許されません。

沈黙して職務を守るのか。

それとも、自らの人生を危険にさらしてでも、この事実を世の中へ知らせるのか。

葛藤の末、キャサリンはある決断をします。

やがて情報は新聞社「オブザーバー」へ渡り、記者マーティン・ブライト(マット・スミス)たちが真相を追い始めます。

しかし、国家機密が外部へ流出したことを知った政府も動き出します。

一人の情報機関職員。

真実を報じようとするジャーナリストたち。

そして彼女を守ろうとする弁護士たち。

戦争が刻一刻と近づいていくなか、それぞれの立場から「真実」をめぐる闘いが始まります。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『オフィシャル・シークレット』を観ていて最も難しいと感じたのは、キャサリン・ガンの行為をどの立場から見るのか、ということでした。

国家機密を扱う仕事に就いている以上、その情報を外部へ漏らしてはいけない。

これは当然のことです。

もし職員一人ひとりが「自分はこの政策に反対だから」という理由で国家機密を自由に公開してしまえば、情報機関そのものが成り立たなくなります。

その意味では、キャサリンが行ったことを単純に「勇気ある正義の行動」とだけ評価することには慎重になる必要があると思います。

しかし、この映画はそこでもう一つの問いを突きつけます。

では、国家そのものが間違った方向へ進んでいると信じたとき、それでも職員は沈黙し続けるべきなのでしょうか。

しかも、その先にあるのが「戦争」だったとしたら。

キャサリンが恐れていたのは、自分のキャリアを失うことではありませんでした。

このまま何もしなければ、本当に戦争が始まってしまう。

そして戦争が始まれば、もう元には戻せない。

多くの人が死ぬ。

だからこそ彼女は、自分の仕事も自由も、それまで築いてきた生活も失う可能性を承知しながら、情報を外へ出しました。

この作品を象徴しているのは、キャサリンの行動に込められたこの考え方だと思います。

政府と国家は同じではない。

政府の政策に反対することが、必ずしも国を裏切ることではない。

むしろ、政府が国を誤った方向へ導こうとしていると考えたからこそ、それを止めようとすることが「国への忠誠」になる場合もある。

ここに本作最大のテーマがあります。

国家機密を漏らした人物を「裏切り者」と呼ぶのは簡単です。

しかし、彼女が守ろうとしていたものは何だったのでしょうか。

政府でしょうか。

情報機関でしょうか。

法律でしょうか。

それとも、戦争によって失われるかもしれない名も知らない人々の命だったのでしょうか。

キャサリンの行動に全面的に賛成できるかどうかとは別に、彼女がこの問いを自分自身に突きつけ、最後にはその結果を引き受けたことには大きな勇気を感じました。

キャサリンの行動には、英雄になりたいという雰囲気がほとんどありません。

有名になりたいわけでもありません。

政府を倒したいわけでもない。

ジャーナリストになりたいわけでもない。

ただ、

「この戦争は間違っている。何とかして止めなければならない」

という思いがあるだけです。

そして、ここがこの映画をより苦しいものにしています。

彼女が危険を冒して情報を漏らし、記者たちが記事を世に出しても、歴史そのものを止めることはできませんでした。

2003年3月、イラク戦争は始まります。

つまり、この映画には分かりやすい意味での「勝利」がありません。

主人公が勇気ある行動を取ったから戦争が回避され、人々が救われるという物語ではないのです。

だからこそ現実的です。

正しいと思うことをしたからといって、必ず世界を変えられるわけではない。

それでも、何もしない理由にはならない。

キャサリンの行動から感じたのは、そのことでした。

そして本作で印象に残ったのが、キャサリンだけを英雄にしていないことです。

情報を受け取った記者マーティン・ブライトたちは、それが本物なのかを徹底的に調べます。

新聞社にも政治的な立場があります。

記事を出すことで自分たちの信用を失う可能性もあります。

実際、一つのミスによって文書そのものが「偽物ではないか」と疑われる場面もあります。

それでも彼らは取材を続けます。

さらに、キャサリンが訴追されると、今度はベン・エマーソン(レイフ・ファインズ)ら弁護士たちが彼女を守るために動き始めます。

内部告発者。

ジャーナリスト。

弁護士。

それぞれが違う場所から同じ問題に向き合っていく。

この構造がとても良かったです。

キャサリン一人の勇気だけでは、真実は社会に届かなかったでしょう。

情報を受け取り、それを検証し、報道する人が必要です。

そして権力によって個人が追い詰められたとき、法律によって守ろうとする人も必要です。

民主主義とは、一人の英雄によって守られるものではなく、それぞれの場所で「これはおかしい」と言える人々によって支えられているのかもしれません。

終盤の法廷場面は、この映画で最も印象に残りました。

キャサリン側は、彼女の行動が「違法な戦争を防ぐためだった」と主張しようとします。

そうなると裁判では、キャサリンが国家機密を漏らしたかどうかだけではなく、

そもそもイラク戦争は合法だったのか。

という問題に踏み込まざるを得なくなります。

そして政府側は、キャサリンに対する証拠を提出せず、訴追を続けませんでした。

映画の描き方では、キャサリンを裁こうとすれば、逆に政府自身が戦争の合法性について説明を迫られるという構図が浮かび上がります。

これは非常に皮肉です。

国家機密を漏らした人物を裁こうとしたはずなのに、その裁判を続けることで、政府自身が隠しておきたい問題が明るみに出るかもしれない。

この瞬間、映画の構図が反転します。

裁かれるはずだったのは、本当にキャサリンだけだったのでしょうか。

そんな疑問が残ります。

そして個人的に強く感じたのが、こうした事件を映画として残す海外のジャーナリズム精神です。

『スポットライト 世紀のスクープ』や『SHE SAID/シー・セッド』などにも通じますが、権力にとって都合の悪い出来事であっても、それを調べ、報じ、さらに映画として後世へ残していく。

そこには大きな意味があると思います。

映画一本で政治が変わるわけではありません。

過去を取り消すこともできません。

しかし、

「あのとき何が起きていたのか」

を忘れないための記録にはなります。

そして観客に、

「もし自分がキャサリンの立場だったらどうしただろう」

と考えさせることができます。

それこそが、この作品を映画にする意味だったのではないでしょうか。

キャサリンは戦争を止めることができませんでした。

それだけを見れば、彼女の行動は「成功した」とは言えないのかもしれません。

それでも私は、彼女の行動が無意味だったとは思いません。

結果を知っている私たちは簡単に、

「結局、戦争は始まった」

と言えます。

しかし彼女がメールを目にした瞬間には、未来はまだ決まっていませんでした。

止められる可能性があると信じた。

だから行動した。

その一点が、とても大切なのだと思います。

正義とは必ず勝つことではなく、自分が間違っていると思ったことに対して、沈黙しないことなのかもしれません。

『オフィシャル・シークレット』は、キャサリン・ガンを無条件に英雄視する映画として観るより、

「あなたなら、どこまでできますか?」

と観客に問いかけてくる映画として観たほうが、より深く心に残る作品だと思います。

ぜひ多くの方に観ていただきたい一本です。

 

演技

キーラ・ナイトレイ ― キャサリン・ガン

本作のキーラ・ナイトレイは、とても抑えた演技を見せています。

キャサリンはスパイ映画に登場するような大胆不敵な人物ではありません。

恐怖も感じますし、迷いもあります。

それでも「何もしない」という選択ができなかった。

ナイトレイは、その強さと脆さを同時に見せています。

特に印象的なのは、キャサリンを必要以上に英雄らしく見せていないことです。

だからこそ、「ごく普通に働いていた一人の人間が、人生を左右する決断をした」という事実が重く伝わってきます。

マット・スミス ― マーティン・ブライト

マット・スミス演じるマーティン・ブライトは、キャサリンが外へ出した情報を「社会が知るべき事実」へ変えていくジャーナリストです。

情報を受け取っただけでは記事にはできません。

本物なのか。

誰が書いたのか。

何を意味しているのか。

報道する価値があるのか。

一つひとつ確認していかなければなりません。

キャサリンの物語と並行して、ジャーナリズムの責任を背負う人物として重要な存在になっています。

レイフ・ファインズ ― ベン・エマーソン

後半になるほど存在感を増していくのが、レイフ・ファインズ演じる弁護士ベン・エマーソンです。

感情を大きく表に出すタイプではありません。

しかし、政府がキャサリンを裁こうとするならば、その政府が戦争をどのような法的根拠で正当化したのかも問われなければならない。

その論理を静かに組み立てていく姿が非常に格好いいです。

キーラ・ナイトレイ、マット・スミス、レイフ・ファインズ。

三人がそれぞれ「内部告発」「報道」「法律」という異なる立場を担うことで、本作は単なる一人の女性の物語ではなく、民主主義そのものを考えさせる作品になっています。

 

この映画がおすすめな人

  • 実話をもとにした社会派映画が好きな方
  • 『スポットライト 世紀のスクープ』のようなジャーナリズム映画が好きな方
  • 国家機密や内部告発を扱った作品に興味がある方
  • イラク戦争開戦までの政治的背景に興味がある方
  • 派手な展開より、会話と緊張感で進む政治サスペンスが好きな方
  • 「正義とは何か」「国家への忠誠とは何か」を考えさせる映画が好きな方
  • キーラ・ナイトレイ、マット・スミス、レイフ・ファインズが好きな方

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.8 / 5.0
IMDb:★ 7.3 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

※配信状況は変わる場合があります。

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『ワイルド・ローズ(Wild Rose)』―夢の場所は、遠くにあるとは限らない

 

夢を追い続けることは、本当に美しいことなのでしょうか。

もちろん、夢を持つことそのものは素晴らしいことです。しかし、その夢のために家族を傷つけ、誰かに責任を押しつけ、それでも「自分には才能があるのだから」と突き進んでしまったとしたら、それは果たして純粋に応援できる生き方なのでしょうか。

『ワイルド・ローズ(Wild Rose)』は、そんな少し厄介な問いを投げかけてくる音楽映画です。

主人公ローズ=リン・ハーランは、スコットランドのグラスゴーで暮らすシングルマザーです。しかし彼女の心は、カントリーミュージックの本場・ナッシュビルへ向いています。

子どもたちとの生活よりも歌いたい。

安定した仕事よりもステージに立ちたい。

そしていつか、ナッシュビルで認められたい。

その情熱は本物ですが、ローズ=リンは決して「夢に向かってひたむきに頑張る善良な主人公」として描かれているわけではありません。むしろ無責任で、衝動的で、周囲を振り回し、ときには見ているこちらまで苛立たせます。

だからこそ、この映画は面白いのです。

これは、才能ある女性が夢を叶えるまでを描いた単純なサクセスストーリーではありません。

「夢を叶えるとはどういうことなのか」

そして、

「自分が本当に歌うべき場所はどこなのか」

ローズ=リンがその答えにたどり着くまでを描いた、人生の再出発の物語なのです。

 

あらすじ(ネタバレなし)

スコットランド・グラスゴー。

2人の子どもを持つシングルマザー、ローズ=リン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は、カントリー歌手になることを夢見ています。

しかし彼女はある事件によって1年間服役し、出所したばかりでした。

以前歌っていたクラブへ戻ろうとしますが、前科のあるローズ=リンを店側は受け入れてくれません。

そんな娘に対して母マリオン(ジュリー・ウォルターズ)は、いつまでも夢ばかり追いかけるのではなく、安定した仕事に就き、何よりも母親として子どもたちに向き合うよう諭します。

やがてローズ=リンは、裕福な女性スザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で家政婦として働き始めます。

ある日、掃除をしながら歌っていたローズ=リンの歌声をスザンナの子どもたちが耳にします。

その歌唱力を知ったスザンナは、カントリーミュージック好きだったこともあり、ローズ=リンの才能に興味を持つようになります。

ローズ=リンの夢はただ一つ。

カントリーミュージックの本場、アメリカ・ナッシュビルへ行くこと。

彼女はスザンナに旅費の援助を頼みますが、それは断られてしまいます。

しかしスザンナは、ローズ=リンの歌を録音したものをラジオDJのボブ・ハリスへ送ります。

その歌声を高く評価したハリスから、ロンドンで会おうという連絡が届きます。

ついに夢へ近づくチャンスを手にしたローズ=リン。

さらにスザンナは、自宅で開くパーティーでローズ=リンに歌ってもらい、ナッシュビル行きの資金を集めることを思いつきます。

しかし、夢へ近づけば近づくほど、ローズ=リンが後回しにしてきたものが彼女の前に立ちはだかります。

歌手として生きたい自分。

母親として生きなければならない自分。

夢と現実の間で、ローズ=リンは自分の人生そのものと向き合うことになります。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『ワイルド・ローズ』を観ていて興味深いのは、ローズ=リンを無条件には応援できないことです。

歌手になる夢を持ち、抜群の歌唱力を持っている。普通の音楽映画なら、それだけで「頑張れ」と応援したくなる主人公になりそうです。

ところがローズ=リンは違います。

彼女はあまりにも奔放です。

子どもたちがいながら、自分の夢を最優先にする。子どもの世話を母マリオンや友人たちに頼り、自分は歌の練習へ向かう。

もちろん母親になったからといって、自分の夢を捨てなければならないわけではありません。

しかし問題なのは、ローズ=リンが夢を追うことではなく、その夢を追うために必要な責任を他人へ預け続けていることなのだと思います。

マリオンが娘に厳しい言葉を向け続けるのも、夢そのものを否定しているからではありません。

彼女が求めているのは、「まず自分の人生を引き受けなさい」ということなのでしょう。

本作には、夢と子育てを単純な二者択一として描かないところに深みがあります。

ローズ=リンは歌いたい。

しかし彼女は母親でもあります。

だからといって、「母親なのだから夢を諦めるべき」という結論になれば、この映画はあまりにも単純です。

反対に、「才能があるのだから子どもを置いてでも夢を追えばいい」と描くこともありません。

映画がローズ=リンに求めているのは、そのどちらかを捨てることではなく、まず自分の選択に責任を持つことです。

そのことが決定的に表れるのが、息子ライルが腕を骨折する場面です。

それでもローズ=リンは、スザンナのパーティーへ行こうとします。

ナッシュビルへ行くための、最後のチャンスかもしれない。

彼女にとってはそう思える瞬間です。

しかし、ステージに立ったローズ=リンは歌うことができません。

ここで彼女を止めるのは、誰かではありません。

自分自身です。

それまでローズ=リンは、自分が夢を叶えられない理由を環境や境遇の中に見つけていました。

前科があるから。

子どもがいるから。

お金がないから。

グラスゴーにいるから。

けれど、本当に向き合わなければならなかったのは、自分自身の生き方だったのです。

ジュリー・ウォルターズ演じるマリオンも、この映画に欠かせない存在です。

序盤だけを見れば、娘の夢に理解を示さず、現実ばかりを突きつける厳しい母親にも見えます。

しかし物語が進むにつれて、彼女の言葉の意味が変わってきます。

マリオンはローズ=リンに夢を諦めてほしいわけではありません。

娘に「大人になってほしい」のです。

ローズ=リンが夢を追いかけることを一度止め、ウェイトレスとして働き、子どもたちとの生活を大切にし始めたとき、マリオンは初めて娘を支援します。

しかも、その支援はナッシュビルへ行くためのお金です。

ここが本当に素晴らしいところでした。

ずっと「現実を見なさい」と言っていた母親が、娘が現実から逃げなくなった瞬間に、今度は夢を見るための背中を押すのです。

マリオン自身もまた、子どもを育てるために自分の人生で諦めてきたものがありました。

だからこそ、娘に同じ後悔をさせたくない。

この母娘の関係が、『ワイルド・ローズ』を単なる音楽映画以上の作品にしています。

そしてローズ=リンは、ついにナッシュビルへ向かいます。

一般的なサクセスストーリーなら、ここから物語は大きく動き出すでしょう。

才能を見いだされる。

レコード会社と契約する。

大きなステージに立つ。

そして成功者として故郷へ帰る。

しかし、『ワイルド・ローズ』はその道を選びません。

ナッシュビルへ行ったローズ=リンが目にしたのは、彼女と同じように歌手を夢見る無数の人たちでした。

グラスゴーでは特別だった彼女の歌声も、ナッシュビルではそれだけで成功を保証してくれるものではありません。

夢の場所へ行けば、人生が変わる。

ローズ=リンはそう信じていたのだと思います。

けれど実際にそこへ行ったことで、初めて分かります。

自分が本当に探していたものは、ナッシュビルそのものではなかったのだと。

ローズ=リンはグラスゴーへ帰ります。

ここがこの映画で最も好きなところです。

普通なら「夢を諦めた」と見えてしまう選択です。

けれど彼女は夢を諦めたわけではありません。

むしろ、ようやく自分の夢を自分のものにしたのです。

それまで彼女が追いかけていたのは、「ナッシュビルで成功するカントリー歌手」という既製品のような夢でした。

ローズ=リンが歌うべきものは、誰かの人生ではありません。

自分が生きてきたグラスゴー。

子どもたち。

母親。

失敗。

後悔。

そして、それでも歌いたいと思っている自分自身。

それこそが彼女にしか歌えないカントリーミュージックだったのです。

『ワイルド・ローズ』は、成功そのものを否定している映画ではありません。

ただ、「成功とは何か」を問い直しています。

有名になること。

ナッシュビルで歌うこと。

レコード契約を結ぶこと。

それだけが成功なのでしょうか。

ローズ=リンにとって本当の成功とは、歌手としての自分と母親としての自分を切り離すことではなく、その両方を含めた人生を受け入れることだったのではないでしょうか。

夢を追い続けた結果、夢の形が変わる。

それは失敗ではありません。

むしろ、自分が本当に欲しかったものを知ることなのだと思います。

典型的なサクセスストーリーとはひと味違うからこそ、『ワイルド・ローズ』は心に残る音楽映画になっていました。

そして何より、ジェシー・バックリーの歌声です。

力強く、荒々しく、それでいてどこか傷つきやすい。

ローズ=リンという女性の生き方そのものが、その歌声から聞こえてくるようでした。

ぜひ多くの方に観ていただきたい一本です。

 

演技

ジェシー・バックリー ― ローズ=リン・ハーラン

本作最大の魅力は、やはりジェシー・バックリーです。

ローズ=リンは決して演じやすい主人公ではありません。

衝動的で、無責任で、身勝手に見える瞬間も多くあります。それでもジェシー・バックリーは、彼女を単なる「ダメな母親」にしません。

その奥にある焦りや、自分には歌しかないという切実さ、そして夢を失うことへの恐怖まで伝わってきます。

何より圧倒的なのが歌唱シーンです。

単に「俳優なのに歌が上手い」というレベルではなく、ローズ=リンという一人のカントリー歌手がそこにいるような説得力があります。

物語が進むにつれて、同じ力強い歌声にも少しずつ違った感情が宿っていくところも見事でした。


ジュリー・ウォルターズ ― マリオン

そしてローズ=リンの母マリオンを演じるジュリー・ウォルターズも素晴らしいです。

娘に厳しい現実を突きつけながら、決して愛情を失わない母親。

その複雑な感情を、大げさに説明することなく表現しています。

特に後半、ローズ=リンにナッシュビルへ行くためのお金を渡す場面は、本作を象徴する母娘の場面の一つです。

ずっと夢を止めているように見えた母親が、実は娘が本当の意味で夢を追えるようになる瞬間を待っていた。

ローズ=リンの成長だけでなく、マリオン自身の後悔や人生まで感じられるからこそ、この母娘の物語には深い余韻があります。

 

この映画がおすすめなひと

  • 音楽映画が好きな方
  • ジェシー・バックリーの歌声を堪能したい方
  • 王道とは少し違うサクセスストーリーを観たい方
  • 夢と現実の間で悩んだ経験がある方
  • 親子、とくに母と娘の関係を描いた作品が好きな方
  • 「夢を叶えるとは何か」を考えさせてくれる映画が好きな方
  • 派手な成功よりも、人間の成長を丁寧に描いた作品が好きな方

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.6 / 5.0

IMDb:★ 7.1 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

※配信状況は変わる場合があります。

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『否定と肯定(Denial)』― 真実は、声の大きさでは覆せない

歴史的事実を「事実である」と証明しなければならない。

そう聞くと、どこか奇妙に感じます。

ましてや、それがナチス・ドイツによるホロコーストのように、膨大な記録、証言、資料によって歴史的事実として確認されている出来事であれば、なおさらです。

しかし『否定と肯定』が描くのは、まさにその「当たり前だと思っていた事実」を法廷で証明しなければならなくなった人々の闘いです。

本作は、実際に起きた**「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」**をもとにした法廷ドラマです。

ホロコースト研究者デボラ・E・リップシュタットは、著書の中でイギリスの歴史作家デイヴィッド・アーヴィングをホロコースト否定論者として批判します。

ところがアーヴィングは、リップシュタットと出版社ペンギンブックスを名誉毀損で提訴します。

そしてイギリスの当時の名誉毀損法では、訴えられた側が自らの主張の正当性を立証する必要がありました。

つまりリップシュタットたちは、単に自分たちの名誉を守るだけではありません。

アーヴィングが歴史的事実を意図的に歪曲していることそのものを、法廷で証明しなければならなかったのです。

派手な展開が連続する映画ではありません。

しかし、「事実とは何か」「嘘にどう対抗するべきなのか」「すべての意見を同じ土俵に乗せることは本当に公平なのか」という、現代にもつながる非常に重い問いを投げかける作品です。

 

あらすじ(ネタバレなし)

アメリカの大学でホロコースト研究を行う教授、デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)。

彼女は著書の中で、ナチス・ドイツについて研究・執筆してきたイギリス人作家**デイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)**を、歴史的事実を歪曲するホロコースト否定論者として批判していました。

ある日、リップシュタットの講演会にアーヴィング本人が現れます。

彼は聴衆の前で彼女を挑発し、自分の主張が間違っているという証拠を示せと迫ります。

やがてアーヴィングは、リップシュタットと彼女の著書を出版したペンギンブックスを相手取り、イギリスで名誉毀損訴訟を起こします。

当初、リップシュタットはアーヴィング側が自分の正しさを証明しなければならないと考えていました。

しかし、当時のイギリスの名誉毀損訴訟では事情が違います。

被告となったリップシュタット側が、自らの記述が真実であることを証明しなければならなかったのです。

彼女の弁護を担当することになったのは、事務弁護士アンソニー・ジュリアス(アンドリュー・スコット)と、法廷弁護士リチャード・ランプトン(トム・ウィルキンソン)を中心とする法律チームでした。

しかし、アメリカとは異なるイギリスの司法制度や弁護方針に、リップシュタットは戸惑います。

そしてアーヴィングは弁護士を雇わず、自ら法廷に立つことを選択します。

裁判で問われることになったのは、単なる名誉毀損の有無だけではありませんでした。

歴史的事実を意図的に歪める行為を、どのようにして「嘘」だと証明するのか。

一人の研究者と法律家たちは、極めて困難な闘いに挑むことになります。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『否定と肯定』を観て最初に強く感じたのは、今なおデイヴィッド・アーヴィングのようなホロコースト否定論者が存在するという事実への驚きでした。

もちろん、歴史の解釈について議論すること自体は必要です。

新しい資料が発見されれば、従来の歴史認識が修正されることもあります。

しかし本作で問題となるのは、そうした学術的な「解釈の違い」ではありません。

都合の悪い証拠を無視し、自分の主張に合うように史料を選別し、意味を変え、そして歴史そのものを書き換えようとすることです。

だからこそ、この裁判は単純な、

「ホロコーストはあったのか、なかったのか」

という裁判ではありません。

むしろ重要なのは、

「アーヴィングは歴史資料を誠実に扱っていたのか」

という点なのだと思います。

本作が非常に興味深いのは、「言論の自由」や「公平さ」についても考えさせられるところです。

一見すると、

「ホロコーストがあったという人」

と、

「ホロコーストはなかったという人」

の双方に話をさせることが公平に思えるかもしれません。

しかし、歴史的事実まで単なる「意見」として並べてしまった瞬間、事実と虚偽が同じ価値を持つものとして扱われてしまいます。

ここが本作の恐ろしいところです。

アーヴィングにとって必要なのは、必ずしも自分の主張を完全に証明することではありません。

人々の心に、

「もしかしたら?」

という小さな疑念を残すだけでもいいのです。

だから彼は強い言葉を使い、挑発し、メディアが取り上げやすい表現を繰り返します。

「穴がなければ、ホロコーストもない。」

非常に乱暴な論理です。

しかし短く、覚えやすく、ニュースの見出しにはなります。

現代のSNS社会を考えると、この構造はさらに身近に感じられます。

複雑な事実を説明するには時間がかかります。

一方、嘘や陰謀論は、短い言葉で人の感情に訴えることができます。

だからこそ本作は、過去の裁判を描いた映画でありながら、現在の私たちにも非常に近い作品なのだと思います。

最初、リチャード・ランプトンはかなり冷たい人物に見えます。

特にアウシュヴィッツを訪れた場面です。

リップシュタットが犠牲者たちへの思いを抱えてその場所に立つ一方、ランプトンは建物を観察し、構造について質問し、証拠として成立するものを探しています。

その姿は、一見すると無神経にすら見えます。

リップシュタットが怒るのも理解できます。

しかし後になって、その印象が大きく変わります。

彼は犠牲者を軽視していたわけではありません。

むしろ裁判で勝つために、感情ではなく、アーヴィングが逃げられない証拠を探していたのです。

そして法廷でランプトンがアーヴィングを追い詰めていく場面は、この映画でもっとも静かでありながら爽快な場面のひとつでした。

大声で怒鳴るわけではありません。

「あなたは嘘つきだ」と感情的に攻撃するわけでもありません。

アーヴィング自身が使用した資料と発言をひとつずつ照合し、その矛盾を明らかにしていきます。

嘘に対して、より大きな声で対抗するのではなく、事実を積み重ねる。

それがこの映画の戦い方なのです。

終盤、裁判官から非常に不安になる指摘がなされます。

もしアーヴィング本人が自分の主張を本当に信じているのであれば、それは単なる間違いであって、意図的な「嘘」とはいえないのではないか。

ここは観ていて、

「そんな馬鹿な」

と思わずにはいられませんでした。

しかし法律の世界では、「間違っている」ことと「意図的に嘘をついた」ことは別問題です。

だからこそリップシュタット側は、単に、

「アーヴィングの主張は間違っています」

と証明するだけでは足りません。

彼が資料をどのように選び、どのように文章を変え、どのように自分に都合の悪い証拠を排除してきたのか。

その積み重ねから、

これは単なる誤解ではなく、意図的な歴史の歪曲である

ことを示さなければならなかったのです。

そして最終的に、裁判所はリップシュタット側の主張を認めます。

この判決には本当にほっとしました。

『否定と肯定』は少し地味な映画かもしれません。

派手な法廷劇でもありませんし、劇的な逆転劇を強調した作品でもありません。

しかし、だからこそ私はおすすめしたい一本です。

この映画を観ていると、

事実とは何なのか。

嘘に対して、どう向き合うべきなのか。

ということを考えさせられます。

歴史的事実は、声の大きさで決まりません。

人気投票でもありません。

誰かが「私は信じない」と言ったからといって、起きた出来事が消えるわけでもありません。

そして、すべての主張を「ひとつの意見」として平等に扱うことが、必ずしも公平なのではありません。

証拠に基づいた事実と、意図的に作られた虚偽。

その二つの間には、明確な線があります。

『否定と肯定』は、その線を守るために戦った人々を描いた映画なのだと思います。

 

演技

レイチェル・ワイズ/デボラ・E・リップシュタット

レイチェル・ワイズは、正義感が強く、自分の考えをはっきり口にするリップシュタットを力強く演じています。

特に良かったのは、彼女を単純な「正義のヒロイン」として演じていないところです。

リップシュタットは感情的になります。

弁護士たちに反発もします。

自分が法廷で話せないことにも苛立ちます。

しかし徐々に、裁判に勝つことと、自分が言いたいことを言うことは同じではないと理解していきます。

その変化をレイチェル・ワイズがとても自然に表現しています。

ティモシー・スポール/デイヴィッド・アーヴィング

そして非常に印象的なのがティモシー・スポールです。

露骨な悪役として大げさに演じるのではなく、どこか自信満々で、自分こそが真実を知っていると思い込んでいるような人物としてアーヴィングを演じています。

だからこそ不気味です。

彼は単に怒鳴り散らす人物ではありません。

言葉を巧みに使い、相手のわずかな隙を見つけ、自分に有利な物語へと変えていこうとします。

その「もっともらしさ」が、この人物の危険性を際立たせています。

また、リチャード・ランプトンを演じたトム・ウィルキンソンも素晴らしいです。

序盤では冷淡にも見えた人物が、裁判が進むにつれて、誰よりも冷静に真実を守ろうとしている人物だったことが分かってきます。

派手ではありませんが、非常に存在感のある演技でした。

 

この映画がおすすめなひと

・実話をもとにした映画が好きな方
・『スポットライト 世紀のスクープ』のような社会派作品が好きな方
・派手さよりも会話や論理で進む法廷ドラマが好きな方
・歴史、ホロコースト、ナチス・ドイツについて関心がある方
・「事実」と「意見」の違いについて考えてみたい方
・レイチェル・ワイズ、ティモシー・スポール、トム・ウィルキンソンの演技を楽しみたい方

 

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.7 / 5.0

IMDb:★ 6.8 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

※配信状況は変わる場合があります。最新の配信状況は各サービスでご確認ください。

※この記事にはAmazonアソシエイトのリンクが含まれています。

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否定と肯定 (字幕版)

否定と肯定 (字幕版)

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『ボーイズ・ドント・クライ(Boys Don't Cry)』―「自分として生きる」ことを、なぜ許さなかったのか

 

1999年に公開された『ボーイズ・ドント・クライ』は、1993年にアメリカ・ネブラスカ州で起きた実際の事件をもとにした作品です。

主人公は、トランスジェンダー男性のブランドン・ティーナ。

彼が望んでいたのは、決して特別なことではありませんでした。

自分らしく生きること。誰かを好きになること。そして、自分をひとりの人間として受け入れてくれる場所を見つけること。

しかし、そのささやかな願いは、周囲の偏見と暴力によってあまりにも残酷な形で断ち切られてしまいます。

実在のブランドンを演じたのはヒラリー・スワンク。まだ若手だった彼女はこの作品で圧倒的な存在感を見せ、アカデミー主演女優賞を受賞しました。

また、ブランドンが恋に落ちるラナをクロエ・セヴィニー、事件の中心人物となるジョンをピーター・サースガードが演じています。

実際の事件を題材にしているだけに、決して気軽に観られる映画ではありません。

それでも本作が長く語り継がれてきたのは、ひとつの犯罪を再現したからだけではないのでしょう。

人はなぜ、自分とは違う誰かを恐れるのか。

そして、その恐れや偏見は、なぜこれほどまでの暴力へと変わってしまうのか。

『ボーイズ・ドント・クライ』は、その問いを観る側にも突きつけてくる作品です。

 

あらすじ(ネタバレなし)

1993年、ネブラスカ州リンカーン。

ブランドン・ティーナ(ヒラリー・スワンク)は、トランスジェンダー男性として暮らしていました。

あるトラブルをきっかけにリンカーンを離れることになったブランドンは、ジョン(ピーター・サースガード)とトム(ブレンダン・セクストン3世)をはじめとする仲間たちと出会います。

そして、その中にいたラナ(クロエ・セヴィニー)に惹かれていきます。

閉塞感の漂う小さな町で、どこか行き場を失っていた若者たち。

ブランドンは明るく大胆な振る舞いで彼らの輪に溶け込み、やがてラナとの距離も縮まっていきます。

二人は恋に落ち、ブランドンはようやく自分の居場所を見つけたかのように見えました。

しかし、過去に関係する問題からブランドンが警察に拘束されたことをきっかけに、彼が隠していた事実が周囲に知られ始めます。

それまで仲間としてブランドンを受け入れていた人々の態度は、次第に変化していきます。

愛する人と新しい人生を始めたいと願うブランドン。

そんな彼のささやかな希望は、偏見と憎悪によって思いもよらない方向へと向かっていくのでした。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

この作品は、1993年に殺害されたトランスジェンダー男性、ブランドン・ティーナの実際の事件をもとにしています。

現在でもLGBTQ+の人々に対する偏見や暴力がなくなったわけではありませんが、事件が起きた1990年代初頭は、トランスジェンダーという言葉やその存在について社会的な理解が今以上に乏しい時代でした。

だからといって、本作で描かれる暴力を「当時は知識がなかったから」という言葉だけで説明してしまうのは、あまりにも危険だと思います。

ジョンとトムがブランドンに向ける暴力には、単純な無知をはるかに超えたものがあります。

「騙された」。

「知らされていなかった」。

そんな彼らなりの言い分があったとしても、それが暴力を正当化する理由になるはずがありません。

ブランドンの身体を無理やり暴き、屈辱を与え、暴行し、そして最終的には命まで奪う。

そこにあるのは理解不足だけではなく、自分たちの価値観から外れた人間を支配し、罰しても構わないという恐ろしい意識です。

むしろ本作の怖さは、ブランドンを傷つける彼らが、最初から怪物として登場するわけではないところにあります。

ブランドンと酒を飲み、笑い、一緒に遊ぶ。

それまで「仲間」だった人間が、ブランドンについてある事実を知った瞬間に、暴力を向ける側へと変わってしまう。

だからこそ恐ろしいのです。

この映画を観ていて何より苦しく感じるのは、ブランドンの夢が決して大げさなものではないことです。

ラナと恋をする。

一緒に町を出る。

好きな人と未来について話す。

ただ、それだけなのです。

ブランドンが求めているものは「特別扱い」ではありません。

ほかの若者たちと同じように恋をして、未来を夢見て、自分の人生を生きたいだけです。

だからこそ、ラナと過ごしているときのブランドンの表情が印象に残ります。

そこには事件の被害者としてではなく、恋をしているひとりの青年の姿があります。

この映画がブランドンを最初から「悲劇の主人公」としてだけ描かなかったことは、とても重要だと思います。

彼は笑います。

恋をします。

格好をつけます。

失敗もします。

嘘をついてしまうこともあります。

つまり、ブランドンを象徴や社会問題としてではなく、欠点も魅力も持ったひとりの人間として描いているのです。

だからこそ、後半の展開がいっそう耐え難いものになります。

 

個人的に、この映画で特に重く感じるのが、ブランドンが暴行を受けたあと警察へ助けを求める場面です。

本来なら、そこで彼は「犯罪の被害者」として守られるべきでした。

しかし、警察の関心は必ずしもブランドンが受けた犯罪そのものだけに向けられません。

彼の性別や身体について質問し、ブランドン自身を好奇の目で見つめるような対応が描かれます。

暴力を受けた人間が勇気を出して助けを求めたにもかかわらず、そこで再び尊厳を傷つけられる。

これは本作における非常に重要な部分だと思います。

ブランドンを追い詰めたのは、ジョンとトムだけだったのか。

映画を観ていると、そう簡単には言えなくなります。

偏見を持つ人々だけでなく、被害者を守るはずの制度が十分に機能しなかったこと。

そして周囲の人間がブランドンを「ひとりの人間」としてではなく、理解できない存在として見てしまったこと。

個人による暴力と社会の無理解が重なった先に、この悲劇があります。

そんな作品の中で、わずかな光のように感じられるのがラナです。

ラナも最初からすべてを理解していたわけではありません。

ブランドンについて知らなかったこともあります。

戸惑いもあります。

それでも彼女は、ブランドンの身体について知った瞬間、それまでの感情をすべて否定するわけではありません。

彼女が見ていたのは、カテゴリーではなくブランドンという人間だったのでしょう。

周囲が「ブランドンとは何者なのか」を暴こうとするのに対し、ラナにとって重要なのは「自分が誰を愛しているのか」ということです。

この違いは非常に大きいと思います。

もしあの町を出ることができていたら。

もし違う場所に生まれていたら。

もし周囲にもう少し理解があったなら。

観客は何度も「もし」を考えてしまいます。

しかし、現実にはその未来は訪れませんでした。

タイトルの『Boys Don't Cry』――直訳すれば、「男の子は泣かない」。

この言葉も、作品を観終えたあとでは違った響きを持って感じられます。

男とはこうあるべき。

女とはこうあるべき。

男性は強くなければならない。

人間を決められた枠の中に押し込めようとする価値観は、ブランドンだけを苦しめているわけではありません。

ジョンやトムもまた、極端な「男らしさ」に囚われているように見えます。

自分たちが理解できない存在を恐れ、その恐れを暴力によって打ち消そうとする。

そう考えると、このタイトルにはブランドンのジェンダーだけでなく、社会が作り上げた「男らしさ」そのものへの皮肉も込められているように感じます。

ブランドン・ティーナの殺害事件は、アメリカ社会で広く知られる事件となりました。

そして1998年にワイオミング州でゲイの大学生マシュー・シェパードが殺害された事件などとともに、性的指向やジェンダー・アイデンティティに基づく憎悪犯罪をめぐる議論の象徴的な事件として語られるようになります。

その後、2009年にはアメリカで「マシュー・シェパード法」が成立しました。

ブランドンの事件そのものだけがこの法律を成立させたという単純な因果関係ではありません。

しかし、ブランドン・ティーナの死が、アメリカ社会におけるトランスジェンダーへの暴力を可視化した重大な事件のひとつだったことは忘れてはいけないと思います。

映画が公開されたのは事件からわずか6年後。

そう考えると、『ボーイズ・ドント・クライ』が当時の社会に投げかけたものの大きさも感じます。

 

俳優たちの演技が、この映画をさらに苦しくする

ヒラリー・スワンク ― ブランドン・ティーナ

この作品を語るうえで、ヒラリー・スワンクの演技は外せません。

彼女のブランドンには、不思議なほど自然な魅力があります。

少し危なっかしく、自信満々に見えるのに、その奥には常に不安がある。

格好よく振る舞おうとする一方で、ラナの前では恋をした青年らしい無邪気さを見せます。

特に素晴らしいのは、ブランドンを「悲劇の人」として演じていないところです。

私たちは結末を知っているからこそ、どうしてもブランドンを事件の被害者として見てしまいます。

しかしスワンクは、その前に確かに人生を生きていた青年を見せてくれます。

その演技があるから、ブランドンが失った「これから」が強烈に伝わってきます。

彼女が本作でアカデミー主演女優賞を受賞したことにも納得させられる演技です。


クロエ・セヴィニー ― ラナ

クロエ・セヴィニーの演技も素晴らしいです。

ラナは感情を大きく言葉にする人物ではありません。

閉塞した町の中で、どこか諦めたように生きています。

そんな彼女の前にブランドンが現れる。

ブランドンはラナにとって、恋愛の相手であると同時に、この町の外にも人生があることを想像させてくれる存在だったのかもしれません。

だから二人が語る未来には、恋愛以上の切実さがあります。

セヴィニーは、その微妙な感情を非常に繊細に演じています。


ピーター・サースガード ― ジョン

そして、ある意味で最も恐ろしい演技を見せるのがピーター・サースガードです。

ジョンは最初から分かりやすい悪役として登場するわけではありません。

だからこそ怖い。

仲間として笑っていた人物の中に、支配欲や暴力性が少しずつ見えてきます。

そしてブランドンの秘密を知ったことで、それが一気に表面化します。

サースガードの演技には、怒鳴ったり暴れたりする瞬間だけではなく、その前の静かな時間にも不穏さがあります。

何をするのか分からない。

いつ暴力へ切り替わるのか分からない。

その予測不能さが、映画全体に強烈な緊張感を与えています。

ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード。

この三人の演技の凄みがあるからこそ、『ボーイズ・ドント・クライ』は単なる事件の再現ではなく、人間の感情が生々しく迫ってくる映画になっているのだと思います。

 

この映画がおすすめな人

・実話をもとにした社会派映画が好きな人
・LGBTQ+やヘイトクライムを扱った作品に関心がある人
・人間の偏見や差別について考えさせられる映画を観たい人
・ヒラリー・スワンクの代表的な演技を観たい人
・クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガードの演技が好きな人
・観終わったあとにも長く心に残る映画を探している人
・重いテーマでも、人物を丁寧に描いた作品なら観てみたい人

 

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.7 / 5.0
IMDb:★ 7.5 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

※配信状況は変わる場合があります。

ディズニープラス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman)』―喝采の向こうで、本当に大切なものを見つけるまで

 

夢を見ることは美しい。

けれど、その夢が叶い始めたとき、人はどこまで満足できるのでしょうか。

もっと大きな舞台へ。もっと多くの観客へ。もっと大きな喝采へ。そして、自分を見下してきた人々からも認められる場所へ。

『グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman)』は、19世紀に活躍した興行師P・T・バーナムをモデルに、貧しい少年がショービジネスの世界で成功していく姿を描いたミュージカル映画です。

主演はヒュー・ジャックマン。ザック・エフロン、ミシェル・ウィリアムズ、レベッカ・ファーガソン、ゼンデイヤ、キアラ・セトルら豪華なキャストが集結しています。

そして何より、この映画を忘れがたいものにしているのが音楽です。

次々と繰り広げられる歌とダンスには圧倒的なエネルギーがあり、物語そのものを前へ前へと押し進めていきます。

ただし、この映画は単純な成功物語ではありません。

バーナムは、社会から隠れるように暮らしていた人々を舞台へ連れ出し、彼らが喝采を浴びる場所を作ります。その一方で、彼らの身体的特徴を「見世物」として利用し、自分がさらに上の社会へ行くために彼らを遠ざけてしまうこともあります。

夢を追いかける力と、その夢によって見えなくなっていくもの。

華やかなショーの裏側には、「成功とは何なのか」「誰かに認められることは、本当に幸せなのか」という問いが隠されています。

 

あらすじ(ネタバレなし)

貧しい家庭に生まれたP・T・バーナムは、幼い頃から豊かな想像力を持つ夢想家でした。

やがて良家の娘チャリティと結婚し、二人の娘にも恵まれます。裕福とはいえないものの家族との穏やかな生活を送っていたバーナムでしたが、彼の胸の中には「いつか大きなことを成し遂げたい」という思いがありました。

そんな中、勤務していた会社が倒産し、職を失ってしまいます。

しかし、そこで立ち止まらないのがバーナムでした。

銀行から資金を借り、「バーナム博物館」を開業します。しかし、珍しい展示物を並べただけの博物館には思うように客が集まりません。

そこで娘たちの言葉からヒントを得たバーナムは、これまでとはまったく違うショーを思いつきます。

小人症の男性、髭を生やした女性、大柄な男性、空中ブランコの兄妹など、身体的特徴や出自を理由に世間から好奇の目を向けられ、隠れるように生きてきた人々を集めたのです。

彼らを主役にしたショーは瞬く間に評判となり、バーナムは興行師として成功への階段を駆け上がっていきます。

しかし、人気が高まるほど批判も激しくなり、劇場の前には彼らを「街の恥」と罵る人々まで集まるようになります。

そんな中、バーナムは上流階級出身の劇作家フィリップ・カーライルを仲間に迎えます。

フィリップの人脈によってヴィクトリア女王への謁見まで果たしたバーナムは、そこで世界的な歌手ジェニー・リンドと出会います。

彼女の歌声を聴いたバーナムは、これこそ自分が上流社会から認められるための機会だと考え、彼女のアメリカ公演を企画します。

貧しい少年だった自分を見下した人々に認めさせたい。

家族にもっと豊かな暮らしをさせたい。

そして、自分自身が「価値のある人間」であることを証明したい。

バーナムの夢は、次第に大きくなっていきます。

しかし、その夢を追えば追うほど、彼は自分のすぐそばにあった大切なものから離れていくのでした。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『グレイテスト・ショーマン』は、P・T・バーナムの成功を描いた華やかなミュージカル映画です。

しかし観終わって印象に残るのは、単なる「夢を諦めなければ成功できる」という物語ではありません。

むしろこの映画で描かれているのは、夢を叶えた人間が、それでも満たされなかった物語なのではないでしょうか。

バーナムはとにかく行動します。

会社を解雇されても立ち止まらず、資金を調達して博物館を作り、それがうまくいかなければ新しいアイデアを考えます。

普通なら一度の失敗で諦めてしまいそうなところでも、彼は次の手を考え続けます。

その行動力は本当にすごいと思います。

ところが、サーカスが大成功しても、彼は満足しません。

なぜでしょうか。

おそらくバーナムが本当に欲しかったものは、お金でも満員の客席でもなかったからです。

彼が求めていたのは、自分を見下してきた世界からの承認だったのだと思います。

幼い頃、貧しい仕立屋の息子だった彼は、チャリティの父親から見下されます。

大人になって成功してからも、上流社会から見れば彼は「成り上がり者」でしかありません。

だからこそバーナムは、どれだけ成功しても「まだ足りない」と感じ続けます。

ジェニー・リンドとの出会いは、その欲望を決定的にしてしまいます。

サーカスではなく、上流階級にも認められる「本物の芸術」を成功させれば、自分もようやく彼らと同じ場所へ行ける。

しかし皮肉なのは、彼が上へ行こうとすればするほど、最初に自分を成功へ導いてくれた人々を置き去りにしてしまうことです。

この映画で最も複雑なのが、バーナムとサーカス団員たちの関係です。

バーナムは、身体的特徴などを理由に社会から差別され、隠れるように暮らしていた人々を探し出します。

そして彼らを舞台に立たせます。

それによって彼らは初めて大勢の観客から拍手を浴び、自分たちの存在を堂々と示せるようになります。

これは確かに素晴らしいことです。

しかし一方で、バーナムが最初から純粋に彼らの尊厳のために行動していたかといえば、そうとも言い切れません。

彼は「珍しい人々」を集めれば客が来ると考えました。

つまり彼らを救おうとしたというより、最初はビジネスとして利用した面もあったはずです。

だからこそ、この物語は面白いのだと思います。

バーナムは完全な善人ではありません。

人を惹きつける才能があり、夢を形にする力がある一方で、成功のためなら危うい方法も選びます。

そして自分が上流社会に近づいた途端、今度はサーカスの仲間たちを恥じるような態度さえ取ってしまいます。

彼らを「隠れている場所」から連れ出した人物が、今度は彼らを扉の外に置いてしまう。

この矛盾こそが、バーナムという人物の危うさをよく表していました。

そんな団員たちが歌うのが、キアラ・セトル演じるレティを中心とした「This Is Me」です。

この場面は何度観ても圧倒されます。

彼らは、それまでずっと他人の視線によって自分自身を決められてきました。

「普通ではない」

「醜い」

「隠れているべきだ」

そんな社会の価値観によって、自分の存在そのものを否定され続けてきた人たちです。

しかし、ここで彼らは自分たちから扉を開けます。

「This is me.」

「これが私だ」

誰かに認めてもらうためではありません。

バーナムに認めてもらうためですらありません。

自分が自分自身を認めるために、彼らは歩き出します。

この瞬間、彼らはバーナムのショーに出演する「見世物」ではなく、自分自身の人生の主人公になります。

だから「This Is Me」は単なる劇中歌ではなく、この映画が伝えようとしているメッセージそのものになっているのだと思います。

そして、この映画のもう一つの重要な曲が「Never Enough」です。

ジェニー・リンドが歌うこの曲のタイトルは、

「Never enough.」

「決して満たされない」

という意味を持っています。

劇中ではジェニーの歌ですが、この言葉こそバーナム自身を表しているようにも感じます。

サーカスが成功しても足りない。

お金を手に入れても足りない。

家を手に入れても足りない。

上流階級と交流できても足りない。

批評家に認められても、まだ足りない。

その欲望の先で、バーナムはサーカスも家も家族も失ってしまいます。

彼がようやく気づくのは、すべてを手に入れた瞬間ではなく、すべてを失った瞬間でした。

ミシェル・ウィリアムズ演じるチャリティは、バーナムとは対照的な人物です。

バーナムは常に「もっと上」を見ています。

しかしチャリティは、今ここにある幸せを見ることができます。

夫がいて、娘たちがいて、家族で笑うことができる。

それで十分だったのです。

バーナムは家族のために成功したいと思っていました。

しかしいつしか「家族のため」という目的が、「自分が認められるため」にすり替わってしまいます。

その結果、最も幸せにしたかったはずの家族を傷つけてしまいます。

チャリティが怒ったのは、単純にジェニーとのキスだけではなかったのでしょう。

彼女はずっとバーナムと一緒に夢を追ってきました。

貧しくても、不安定でも、二人ならよかった。

しかしバーナムはいつの間にか一人で走り始めてしまったのです。

物語の最後、バーナムはフィリップにショーマンの座を譲ります。

そして娘のバレエの発表会へ向かいます。

映画の冒頭なら、バーナムは舞台の中央に立っていたでしょう。

大勢の観客。

スポットライト。

喝采。

それこそが成功だと思っていたからです。

しかし最後に彼が選んだのは、客席でした。

娘が立つ舞台を、チャリティの隣で見守ること。

それは一見すると小さな変化ですが、バーナムにとっては非常に大きな変化です。

世界中から拍手されることより、大切な人のそばにいること。

映画の最後に彼がようやくたどり着いた「成功」は、最初から彼のすぐそばにあったのだと思います。

 

演技

ヒュー・ジャックマン/P・T・バーナム

この作品は、ヒュー・ジャックマンの存在なしには成立しなかったのではないかと思うほど、彼の魅力が詰まっています。

歌、ダンス、表情、そして観客を引き込むスター性。

バーナムにはかなり身勝手な部分もありますが、それでも完全に嫌いになれないのは、ヒュー・ジャックマンが持つ人間的な温かさによるところも大きいと思います。

特に「The Greatest Show」で見せるショーマンとしての圧倒的な存在感は見事です。

ザック・エフロン/フィリップ・カーライル

上流社会の安全な世界に生きていたフィリップが、バーナムと出会ったことで少しずつ自分の人生を選び始めます。

「The Other Side」でヒュー・ジャックマンと掛け合う場面はテンポが良く、二人の魅力が存分に発揮されています。

一方でゼンデイヤとの「Rewrite the Stars」では、華やかなショーとは違う繊細さも見せています。

ミシェル・ウィリアムズ/チャリティ・バーナム

派手な登場人物が多い作品の中で、チャリティは静かな存在です。

しかし、実はこの映画の価値観を支えている重要な人物でもあります。

バーナムが「まだ足りない」と上ばかりを見続ける一方で、チャリティは目の前にある幸せを大切にしています。

ミシェル・ウィリアムズの穏やかな演技が、華やかな映画に人間的な温度を与えていました。

レベッカ・ファーガソン/ジェニー・リンド

レベッカ・ファーガソンが演じるジェニー・リンドには、サーカスとはまったく違う「正統派」の華やかさがあります。

ステージに立った瞬間に空気が変わるような存在感があり、バーナムが彼女に可能性を感じることにも説得力があります。

なお、ジェニーの歌唱部分はローレン・アレッドが担当しています。

「Never Enough」の圧倒的な歌声は、本作を代表する音楽シーンの一つです。

キアラ・セトル/レティ・ルッツ

そして忘れられないのがキアラ・セトルです。

最初は人前に出ることさえためらっていたレティが、やがて仲間たちの先頭に立って歩いていく。

その変化を象徴する「This Is Me」は、本作最大の見せ場と言ってもいいでしょう。

力強い歌声だけではなく、そこに込められた怒り、痛み、誇りが伝わってきます。

バーナムの成功以上に、彼女たちが「自分自身であること」を受け入れていく姿こそ、この映画のもう一つの大きな物語だったと思います。

 

この映画がおすすめなひと

・音楽を中心に楽しめるミュージカル映画が好きな人
・ヒュー・ジャックマンの歌やダンスを堪能したい人
・「This Is Me」「Never Enough」などの楽曲が好きな人
・夢や成功を追いかける物語が好きな人
・自分らしく生きることをテーマにした作品が好きな人
・家族や仲間とのつながりを描いた映画が好きな人
・華やかでテンポの良い映画を観たい人
・ミュージカル映画をあまり観たことがない人にもおすすめです

 

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 4.1 / 5.0
IMDb:★ 7.5 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

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『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ(The Woman in the Window)』―見たはずの真実を、誰も信じてくれない

 

「確かに、この目で見た」

そう訴えているのに、誰も信じてくれない。

しかも、自分自身でさえ「本当に見たのだろうか」と疑い始めてしまったら――。

『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ(The Woman in the Window)』は、広場恐怖症によって自宅から出られなくなった女性が、向かいの家で起きた殺人を目撃したことから始まる心理サスペンスです。

主人公アナ・フォックスを演じるのはエイミー・アダムス。そしてゲイリー・オールドマン、ジュリアン・ムーア、ジェニファー・ジェイソン・リーと、驚くほど豪華な俳優陣が脇を固めています。

家から出られない主人公。

窓から見える他人の生活。

偶然目撃してしまった事件。

そして、「自分が見たものは本当に真実なのか」という疑念。

本作はそうした古典的な「覗き見るサスペンス」の構造に、精神疾患や薬、アルコール、喪失といった要素を組み合わせることで、主人公だけでなく観客の認識まで揺さぶっていきます。

果たして、窓の向こうで殺人は起きたのでしょうか。

それとも、すべてはアナの頭の中で作り出されたものなのでしょうか。

 

あらすじ|ネタバレなし

児童心理を専門とするセラピスト、アナ・フォックス(エイミー・アダムス)は、マンハッタンの大きな家で一人暮らしをしています。

夫エドワード(アンソニー・マッキー)とは別居しており、娘オリヴィアとも離れて暮らしていますが、二人とは電話で頻繁に会話を交わしていました。

しかしアナは広場恐怖症を抱えており、外へ出ることができません。

大量の薬を服用しながら酒を飲み、自宅という閉ざされた世界で毎日を過ごしています。

そんな彼女の習慣となっているのが、窓から近隣住民を眺めることでした。

ある日、向かいの家にラッセル一家が引っ越してきます。

父親のアリステア(ゲイリー・オールドマン)、母親のジェーン、そして15歳の息子イーサン(フレッド・ヘッキンジャー)の三人家族です。

やがてイーサンがアナの家を訪れ、父親アリステアが暴力的な人物であることをほのめかします。

その後、ジェーンと名乗る女性もアナの家を訪れます。

二人は酒を飲みながら語り合い、アナは久しぶりに他人との楽しい時間を過ごします。

ところが、ある夜。

いつものように窓の向こうを見ていたアナは、ラッセル家でジェーンが刺される瞬間を目撃してしまいます。

慌てて警察へ通報するアナ。

しかし、駆けつけた警察から告げられたのは信じられない事実でした。

ジェーン・ラッセルは生きているというのです。

そしてアナの前に現れた「ジェーン」は、彼女が以前会った女性とはまったくの別人でした。

では、アナが会った女性はいったい誰だったのでしょうか。

殺人を目撃したという記憶は事実なのか。

薬とアルコールによる幻覚なのか。

それとも、ラッセル一家が何かを隠しているのでしょうか。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』の面白さは、「アナが嘘をついているのか?」ではなく、**「アナの言っていることのどこまでが本当なのか?」**を観客にも判断させ続けるところにあります。

実際、アナは嘘つきというわけではありません。

彼女自身は、自分が見たものを本気で信じています。

しかし、彼女には広場恐怖症があり、大量の薬を服用し、それと同時にアルコールも摂取しています。

さらに物語が進むと、アナが電話で話していた夫エドワードと娘オリヴィアは、すでに交通事故で亡くなっていたことが明らかになります。

つまり、私たちが序盤から「現実」として受け入れていたものの中に、すでにアナの作り出した世界が混ざっていたのです。

ここで一度、観客の足場が完全に崩れます。

「それならジェーンの殺人も幻覚だったのではないか」

そう思わせるのが本作の大きな仕掛けです。

この映画で興味深いのは、アナの認識が実際に歪んでいることと、彼女が目撃した事件が事実だったことが同時に成立している点です。

夫と娘との会話は現実ではありませんでした。

しかし、窓の向こうで見た「ジェーン」の殺害は幻覚ではなかった。

アナが会った女性はジェーン・ラッセルではなく、イーサンの実母ケイティ・メッリでした。

つまりアナは、**「間違った人物をジェーンだと思っていたけれど、殺人そのものは正しく目撃していた」**のです。

ここが本作のサスペンスとして一番面白いところだと思います。

真実と妄想を完全に二分するのではなく、その二つを混在させています。

だからこそ、アナだけでなく観客も混乱します。

何が事実で、何が幻覚なのか。

一度彼女の認識に誤りがあると分かった瞬間、それまでのすべてを疑いたくなってしまいます。

そして、本作で最も怖いと感じるのは、殺人犯の存在だけではありません。

一度「この人の認識は信用できない」と判断されると、本当のことを話していても信じてもらえなくなることです。

アナには精神的な問題があります。

薬も服用しています。

アルコールにも依存しています。

幻覚も見ています。

だから周囲からすれば、彼女の証言を疑う理由はいくらでもあります。

警察が疑うこと自体にも一定の合理性があります。

しかし、その合理性こそが結果的に真実を覆い隠してしまいます。

「この人は病気だから」

「薬を飲んでいるから」

「幻覚を見ることがあるから」

そうした情報を知った瞬間、人はその人物の言葉すべてを疑ってしまう。

けれど、あることについて認識を誤っている人が、別のことについても必ず間違っているとは限りません。

本作では、この心理がサスペンスのギミックとして非常によく機能していました。

そして終盤、物語はもう一度大きく方向を変えます。

犯人は父親アリステアではなく、息子のイーサンでした。

序盤のイーサンは、暴力的な父親に怯える少年のように描かれています。

だからこそ、アナも彼を「助けるべき子ども」として見ています。

児童心理を専門とするセラピストであるアナにとって、イーサンは特に放っておけない存在だったのでしょう。

ところが実際には、その「守られるべき少年」こそが捕食者でした。

しかもイーサンはアナの家へ密かに侵入し、眠っている彼女の写真まで撮影していました。

ここで映画の「見る/見られる」という関係も逆転します。

それまで窓からラッセル一家を覗いていたのはアナでした。

しかし実は、アナ自身もイーサンから見られていたのです。

覗いていると思っていた人間が、実は覗かれていた。

この反転は、本作のテーマと非常に相性のいい仕掛けだったと思います。

一方で、作品全体として惜しいところもあります。

夫と娘についての真実、二人のジェーン、ケイティの正体、デヴィッドの過去、匿名メール、イーサンの正体……と、後半になるほど秘密が次々と明らかになります。

それぞれは面白いのですが、少し要素を詰め込みすぎた印象もあります。

特に終盤は、それまでの心理サスペンスから一気に直接的な殺人鬼との対決へと変化します。

ここは好みが分かれるところでしょう。

個人的には、前半から中盤にかけての「本当に殺人を見たのか、それとも見ていないのか」という曖昧さを、もう少し長く、そして深く掘り下げてもよかったように感じます。

アナの認識そのものが信用できないという設定が非常に魅力的だからこそ、終盤の展開には多少ご都合主義的に感じる部分もありました。

それでも、最後まで「何が本当なのか」を気にさせる力はあります。

そして何より、豪華出演陣の演技が物語を引き締めています。

サスペンス映画として一定以上の見応えを保っている作品だと思います。

 

演技

エイミー・アダムス|アナ・フォックス

本作を支えているのは、間違いなくエイミー・アダムスです。

アナは非常に難しい役です。

観客には彼女へ感情移入してもらわなければならない。

しかし同時に、「この人の見ているものを本当に信用していいのか?」とも思わせなければなりません。

エイミー・アダムスは、恐怖、孤独、混乱、罪悪感、アルコールへの依存、そして自分自身への不信感を重ねながら、アナを単なる「信用できない主人公」にはしていません。

特に夫と娘の真実が明らかになった後、それまでのアナの行動の意味が一変します。

彼女が家から出られない理由も、酒に逃げる理由も、存在しない家族と話し続けてしまう理由も、すべてが巨大な喪失と罪悪感につながっていたことが分かります。

サスペンスの主人公であると同時に、深い喪失から動けなくなってしまった一人の女性としてアナを成立させているのは、エイミー・アダムスの演技力があってこそでしょう。

ゲイリー・オールドマン|アリステア・ラッセル

ゲイリー・オールドマンは、登場した瞬間から「何かを隠している」と思わせる存在感があります。

威圧的で、怒りっぽく、アナの証言を強く否定する。

観客が「この男が犯人なのでは?」と思うのは当然でしょう。

だからこそ彼の存在そのものが、巧妙なミスリードになっています。

犯人らしく見えすぎるほど犯人らしい。

ゲイリー・オールドマンという俳優の持つ圧倒的な存在感を逆手に取った配役だったと思います。

ジュリアン・ムーア|“ジェーン・ラッセル”

ジュリアン・ムーアの登場時間は決して長くありません。

しかし強烈な印象を残します。

アナと酒を飲み、笑い、自然に距離を縮めていく姿には独特の魅力があります。

だからこそ、その後「そんな女性はいない」と言われたとき、観客もアナと同じ混乱を味わいます。

「あれほど確かに存在していた人が、存在しなかったはずはない」

そう思わせるだけの説得力があります。

短い登場時間で物語全体に大きな疑問を残す、非常に贅沢なキャスティングでした。

 

この映画がおすすめなひと

・何が現実で何が幻覚なのか分からない作品が好きな方
・どんでん返しのあるミステリーを探している方
・閉鎖された空間で展開する心理サスペンスが好きな方
・エイミー・アダムスの演技を堪能したい方
・ゲイリー・オールドマン、ジュリアン・ムーアなど豪華キャストの共演を楽しみたい方
・「信用できない語り手」を使った物語が好きな方

 

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.2 / 5.0
IMDb:★ 5.7 / 10

 

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誰もアナの言葉を信じないなか、やがて彼女自身も、自分の記憶と現実を疑い始めます。