Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『コーダ あいのうた(CODA)』―音のない世界と、音のある世界のあいだで

 

『CODA あいのうた』は、音楽を題材にした作品でありながら、本当に描いているのは「音楽」そのものではなく、「理解」と「自立」の物語です。

聴覚障害を持つ家族の中で、唯一耳が聞こえる少女ルビー。
彼女は幼い頃から、家族と社会を繋ぐ「通訳」として生きてきました。

それは家族を支える大切な役割であると同時に、彼女自身の人生とのあいだに、静かな葛藤を生み出していきます。

この映画は、音のある世界と、音のない世界。
その両方を生きる一人の少女が、自分自身の声を見つけていく物語です。

 

あらすじ(ネタバレなし)

ルビー・ロッシは、聴覚障害を持つ家族の中で唯一耳が聞こえる「CODA(Child of Deaf Adults)」です。
家族の漁業を手伝いながら、通訳として社会との橋渡し役を担ってきました。

しかしある日、学校の合唱クラブに参加したことをきっかけに、彼女は自分に歌の才能があることを知ります。

音楽は、彼女にとって初めて「自分自身」として存在できる場所でした。

けれどその夢は、家族の生活と密接に結びついている彼女にとって、簡単に選べるものではありませんでした。

家族と共に生きること。
そして、自分自身の人生を生きること。

ルビーはその二つのあいだで、大きな選択を迫られることになります。

 

「CODA」というタイトルが持つ、二つの意味

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

「CODA」という言葉には、この作品の本質を象徴する二つの意味があります。

一つ目は、「Child of Deaf Adults」――
聴覚障害を持つ親のもとに生まれた、耳の聞こえる子供を指す言葉です。

彼らは幼い頃から、「音のある世界」と「音のない世界」を繋ぐ存在として生きることになります。
ルビーもまた、家族にとって欠かすことのできない「声」として生きてきました。

しかしそれは同時に、彼女自身の人生を制限するものでもありました。

父が語った、

"She was never a baby."

(あの子は一度だって子供だったことなんてない)

という言葉は、ルビーが幼い頃から「子供」でいることを許されず、
常に家族のための「大人」として生きてきたことを表しています。(このお父さんの言葉はそんなルビーの状況を誰より理解していた証です。)

 

もう一つの意味は、音楽用語としての「コーダ(Coda)」です。

コーダとは、楽曲の最後に置かれる終結部――
それまでの旋律を終え、新たな地点へと導くための最後の章です。

それはルビーが、「家族の通訳」としての役割から離れ、
自分自身の人生へと踏み出す瞬間そのものを象徴しています。

この映画のタイトルは、家族の物語の終わりではなく、
ルビー自身の人生の始まりを意味しているのです。

 

音のない世界と、音のある世界

この映画の最も優れた点のひとつは、「聴こえない世界」を観客自身に体験させる演出にあります。

コンサートのシーンで、突然すべての音が消える瞬間。
観客は初めて、ルビーの家族と同じ世界に置かれます。

音楽は存在している。
しかし、それを聴くことができない。

その静寂は、「欠落」ではなく、ただ異なる世界の在り方として描かれています。

作品全体の約40%が手話によって構成されていることも、
この映画が音のある世界だけで語られていないことを示しています。

 

「美しい声」ではなく、「伝える声」を ―― V先生という存在

ルビーにとって、V先生は単なる音楽教師ではありませんでした。
彼は、ルビーが初めて「自分自身の声」と向き合うきっかけを与えた人物でした。

彼は、ルビーにこう問いかけます。

“Do you know what Bowie said about Bob Dylan? ‘A voice like sand and glue.’
There are plenty of pretty voices with nothing to say. Do you have something to say?”

(ボウイがボブ・ディランについて何て言ったか知ってるか?
「砂と糊のような声だ」と。
美しい声はいくらでもある。だが、何も伝えるものがない声も多い。
お前には、伝えるべきものがあるのか?)

これは、歌の上手さを問う言葉ではありません。
むしろ、「人生そのもの」を問う言葉でした。

ルビーはこれまで、自分の声ではなく、家族の声を社会に届けるための“通訳”として生きてきました。

自分自身の声で、何かを伝えるという経験を、ほとんど持たずに。

だからこそ、この問いは、彼女の核心に触れるものだったのです。

そしてV先生は、さらに彼女にこう言います。

“Come on! Yeah. You think you were the only kid who ever got bullied?
Who ever had a funny accent?! Look in my eyes. Push against my hands as hard as you can. Push!
Make the ugliest, grossest sound you can. Come on!”

(どうした!いじめられたのはお前だけだと思ってるのか?
変な声だと笑われたのはお前だけだと思ってるのか?
俺の目を見ろ。手を押せ!全力で押せ!
一番醜くて、汚い声を出してみろ!)

ルビーと境遇が全く一緒というわけでなくとも移民系のV先生だからこそ伝えられる言葉でした。そして、求めたのは、「きれいな声」ではありませんでした。

抑え込んできた感情。
傷ついてきた記憶。
自分自身を閉じ込めてきた時間。

そのすべてを、声にすること。

ルビーにとって歌うことは、
初めて「自分自身として存在する」ことと同義だったのです。

彼は、歌い方を教えたのではありません。

ルビーが、自分自身の人生を、
自分自身の声で生きることを教えたのです。

そしてその変化は、
後のオーディションで、手話と歌を重ねるという奇跡の瞬間へと繋がっていきます。

そこにあったのは、
もはや「美しい声」ではなく、

彼女自身の人生そのものでした。

 

家族の愛の形

ルビーの母ジャッキーは、こう語ります。

"I prayed that you would be deaf."

(あなたが聴こえない子でありますようにと祈った)

それは残酷な言葉ではなく、娘と繋がれないかもしれないという恐れから生まれたものでした。

この映画は、「障害」ではなく、誰もが抱える家族の不安や愛を描いています。

耳が聞こえるかどうかではなく、親と子の関係は同じように複雑で、同じように愛に満ちています。

その後に、以下の会話があります。

Jackie "I thought I would fail you. That being deaf would make me a bad mom."
(あなたを失望させてしまうと思った。「耳が聞こえないこと」が、私をダメな母親にするんじゃないかって。)

Ruby :" [signing] Don't worry. You are a bad mom for so many other reasons."

(心配しないで。お母さんがダメな母親なのは耳が聞こえないからじゃないから)

ここでルビーはジャッキーを**「障害者」ではなく「一人の人間(ちょっと困った母親)」**として対等に愛していることが伝わるいいシーンでした。

 

兄レオとの関係 ―― 愛ゆえの拒絶、そして解放

ルビーにとって、兄レオは最も近くにいながら、最も複雑な存在でした。

彼は同じように聴覚障害を持ちながらも、常に家族の中で「守られる側」として扱われてきました。

しかし彼は、自分が無力ではないことを誰よりも理解していました。

ルビーに向かって彼は静かに言います。

"You can’t fish full time."
(お前はフルタイムで漁師をやるべきじゃない。)

そして続けて、

"Gertie told me that you can really sing. That’s special."
(お前は本当に歌えるんだってな。それは特別なことだ。)

彼は、ルビーの才能を理解していました。
そしてその才能が、家族の中に閉じ込められてしまうことを恐れていました。

しかしルビーは反論します。

"What else am I supposed to do?"
(じゃあ他にどうしろって言うのよ?)

それは、彼女がこれまでずっと家族のために生きてきた証でした。

その瞬間、レオの感情が爆発します。

"Let me do this! I got this! I’m the older brother and I get treated like a baby."
(俺にやらせろ!俺がやるんだ!俺は兄貴なのに、いつまでも赤ん坊扱いだ。)

この言葉は、彼自身の苦しみを表していました。

彼は無力なのではなく、無力だと扱われてきただけでした。

そして彼は、ルビーに向かって叫びます。

"You’re so afraid that we’ll look stupid. Let them figure out how to deal with deaf people! We’re not helpless!"
(俺たちは無力じゃない!)

それは、自分自身の尊厳を守るための言葉であると同時に、
ルビーを家族の責任から解放するための言葉でもありました。

そして最後に、彼は言います。

"Our family was fine before you were born. Go."
(お前が生まれる前だって、この家族は大丈夫だったんだ。行け。)

それは拒絶ではありませんでした。それは、
妹を愛しているからこそ、
彼女を自分の人生へ送り出すための言葉でした。

ルビーはこれまで、家族の「通訳」として生きてきました。
しかしこの瞬間、彼女は初めて、家族の役割から解放されるのです。

レオの「Go」は、妹を失う言葉ではなく、
妹を一人の人間として認める言葉でした。

それは、この映画の中で最も静かで、そして最も深い愛の表現のひとつでした。

 

父の演技 ―― 振動で「聴く」ということ

この映画の中で最も心を打たれるのは、父フランクがルビーの歌声を理解しようとする場面です。

彼はルビーの喉に手を当て、その振動を通して彼女の歌を感じ取ろうとします。

それは、音を聴くことではなく、娘の存在そのものを理解しようとする行為でした。

物語の冒頭では、爆音で音楽を流すトラックの中にいた父が、最後には振動という静かな方法で娘の声を「聴く」。

その対比は、彼自身の変化と、ルビーを一人の人間として認める瞬間を象徴しています。

トロイ・コッツァーの演技は、言葉を超えた深い愛を見事に表現していました。

 

手話で歌うという奇跡 ―― 家族へ届いた本当の「声」

この物語のクライマックスは、間違いなくオーディションの場面にあります。

それまでルビーは、自分の夢を諦め、家族のもとに残る決断をしようとしていました。
家族の生活は、自分の「通訳」としての存在に支えられている。
その事実を、誰よりも彼女自身が理解していたからです。

しかし――
彼女の家族は、彼女を手放すことを選びます。

それは、「失う」という選択ではなく、「送り出す」という愛の選択でした。

本来、オーディション会場に家族が入ることはできません。
それでも彼らは会場に入り、客席からルビーを見つめます。

耳の聞こえない家族は、彼女の歌声を「聴く」ことができない。

それでも――
彼らはそこにいました。

ルビーは「Both Sides Now」を歌い始めます。

この曲は、物事の両面を見ること、そして成長によって世界の見え方が変わっていくことを歌った曲です。

それはまさに、家族のために生きてきた少女が、自分自身の人生を生きることを選ぶ瞬間にふさわしい歌でした。

そして、歌の途中で――
ルビーは、歌いながら手話を始めます。

それは、審査員のためではありません。

家族のための歌でした。

音としては届かない歌を、意味として、想いとして、彼らに届けるために。

彼女は、初めて
「家族の通訳」ではなく、「自分自身の言葉」で家族と向き合ったのです。

それまでルビーは、家族と社会を繋ぐ存在でした。
しかしこの瞬間、彼女は、歌によって、家族と心を直接繋いだのです。

そのとき初めて、ルビーの声は、
完全な形で家族に届いたのです。

それは単なるオーディションではありませんでした。

通訳として生きてきた少女が、初めて、自分自身の声で、
家族に「さようなら」と「ありがとう」を同時に伝えた瞬間だったのです。

 

「Go」―― 娘を手放すという、最大の愛

この映画の最終盤で胸を打たれる瞬間のひとつは、
父フランクが最後に、声を出して「Go」と言う場面です。

それまで彼は、手話で世界と繋がってきました。
彼にとって言葉とは、手で表すものであり、声ではありませんでした。

しかしその瞬間――
彼は、声を使います。

「Go」

それは、決して明瞭な発音ではありません。
それでも、その一言には、彼のすべてが込められていました。

それは、「行くな」ではなく、「行け」という言葉。

娘を必要としてきた父が、娘を手放すことを選ぶ瞬間。

それは、親として最も勇気のいる決断だったはずです。

愛しているからこそ、そばに置くのではなく、送り出す。

そのたった一言は、どんな長い言葉よりも強く、どんな完璧な手話よりも深く、
ルビーに届いたはずです。

そして、別れの瞬間。
車の中からルビーが伝えるもうひとつの言葉。

"I Really Love You"

手話で伝えられるその言葉は、
特に「Really」が強調されています。

それは単なる愛情表現ではありません。今まで、
言葉にしなくても伝わっていたもの。

通訳を必要としなかったもの。家族として、ずっと共有してきたもの。

この映画は、「声がなくても愛は伝わる」ということを、
最後の最後で、最も静かな形で証明します。

 

海と湖 ―― ルビーが生きてきた場所と、自分になれる場所

この映画では、水の存在もまた、重要な意味を持っています。

海は、ルビーにとって「大人でいなければならない場所」です。

そこでは彼女は、娘ではなく、通訳であり、労働力であり、家族を支える存在です。
漁の現場では、彼女は常に責任を背負っています。

海は、美しい場所であると同時に、彼女から「子供でいる時間」を奪ってきた場所でもあります。

一方で、湖はまったく違う意味を持っています。

湖は、彼女が「ただの少女」でいられる場所です。

そこで彼女は、歌を歌い、夢を見て、誰かを好きになり、自分自身として存在することができる。

海は義務の象徴であり、湖は自由の象徴です。

そして物語の終盤、ルビーは海ではなく、
自分自身の人生へ向かって進みます。

 

Both Sides Now が象徴するもの

ルビーが歌う「Both Sides Now」は、この映画のテーマそのものを象徴する楽曲です。

物事の両側を知ること。
一つの世界だけではなく、その向こう側を理解すること。

ルビーは、音のある世界と、音のない世界。
家族と、自分自身の人生。

その両方を知る存在でした。

この楽曲は、彼女の人生そのものを映し出しています。

 

演技について

本作のリアリティは、実際のろう者俳優によって支えられています。

父フランクを演じたトロイ・コッツァーは、その圧倒的な演技によってアカデミー助演男優賞を受賞しました。

母ジャッキー役のマーリー・マトリンと兄レオ役のダニエル・デュラントも同じくろう者です。

また、ルビーを演じたエミリア・ジョーンズは、手話と歌の両方を習得し、見事な演技を披露しています。

彼女の表現は、ルビーの葛藤と成長を極めて自然に描いていました。

 

フランス版との違い

本作は、フランス映画『エール!(La Famille Bélier)』のリメイクです。

しかし、実際のろう者俳優を起用し、舞台を漁業へと変更することで、より強いリアリズムを獲得しています。

その結果、この作品は単なるリメイクを超え、
独自の完成度を持つ作品となりました。

 

この映画が教えてくれること

『CODA あいのうた』は、音楽の映画であると同時に、理解の映画です。

理解とは、同じ世界を生きることではなく、異なる世界を想像しようとすること。

ルビーは家族を愛していました。
そして家族もまた、彼女を愛していました。

だからこそ彼女は、自分自身の人生を生きることを選びます。

それは別れではなく、新しい関係の始まりでした。

この映画は、人が自分の声を見つける瞬間の美しさを、
静かに、そして深く描いています。

 

おすすめする人

『CODA』は、単なる音楽映画ではなく、
家族、アイデンティティ、そして「自分自身の人生を生きること」の意味を描いた作品です。

次のような方には、特に強くおすすめしたいと思います。

・家族をテーマにした物語が好きな方
・親子関係や兄妹関係の変化を丁寧に描いた作品が好きな方
・音楽が「成功の手段」ではなく「自己表現」として描かれる作品が好きな方
・静かな演技や視線、仕草から感情が伝わる作品を好む方

また、「自分の人生を選ぶこと」と「家族を愛すること」は両立できるのか――
その問いに向き合ったことのあるすべての人にとって、この映画はきっと深く心に残るはずです。

派手な展開がある作品ではありません。
けれど、ひとつひとつの表情や沈黙の中に、本物の感情が確かに存在しています。

観終えたあと、きっと自分の大切な人のことを思い浮かべる。
そんな作品です。

 

評価

※評価は執筆時点のものです。

・Filmarks:★4.2 / 5.0
・IMDb:★8.0 / 10

 

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