Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』―善意が壊れていくとき

 

『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』は、アメリカで実際に起きたオピオイド危機を描いたミニシリーズです。
この物語には、人を救おうとした人々がいます。
患者の痛みを和らげたいと願った医師。
回復し、元の生活に戻りたいと願った患者。
そして、壊れていく現実を前にして、真実を明らかにしようとした人々。

しかし同時に、この物語には、それらすべてを理解したうえで拡大させていった側の存在も描かれています。

『DOPESICK』が描いているのは、単純な善と悪の対立ではありません。
それは、信頼と制度、そして成功への意志が交差したとき、何が起きるのかという物語でした。

 

作品概要:ひとつの薬が社会を変えてしまうまで

※以下、本作の重要な内容に触れています(ネタバレを含みます)

物語はウェストバージニア州の炭鉱の町を中心に、医師、患者、製薬会社、販売員、捜査官、検察官、それぞれの視点から描かれます。

鎮痛剤オキシコンチンは、「依存性が低く安全な薬」として広まりました。
しかしその背後では、企業による意図的なマーケティングと、制度によって正当化された前提が存在していました。

この作品は、その薬がどのようにして社会の中に入り込み、そしてどのような現実を生み出していったのかを、多角的に描いています。

 

善意が搾取される構造:『DOPESICK』が描いた静かなる悲劇

この物語の真の恐ろしさは、悪意が世界を壊したことではなく、「誰かを救いたい」という純粋な善意が、巨大な利益を生むためのシステムに組み込まれ、消費されていった過程にあります。

サミュエル・フィニックス医師が抱いたのは、ウェストバージニアの小さな町で苦しむ患者の痛みを拭いたいという、医師としての純粋な使命感でした。彼にとって製薬会社の甘い言葉は、絶望する患者に差し出す「希望」そのものでした。しかし、その慈悲の心こそが、結果として患者を薬物地獄へ引きずり込む片棒を担がされるという、残酷な逆転現象を生んでしまいます。

また、ベッツィ・マラムという一人の女性の転落も、決して自堕落ゆえではありませんでした。彼女はただ、怪我を治して炭鉱に戻り、愛する人との生活を守りたかっただけなのです。回復を願う誠実な意志が、皮肉にも彼女を依存の淵へと追い詰めました。彼女にとっての薬は快楽の道具ではなく、「普通に生きるため」の切実な手段だったのです。

この悲劇は個人に留まらず、社会全体の「進歩」さえも飲み込んでいきました。「痛みは管理されるべきだ」という人道的な医療の進歩は、製薬会社にとって規制を突破するための絶好の隠れ蓑となりました。社会が「痛みのない世界」を信じようとした前向きなエネルギーが、皮肉にも依存症というパンデミックを拡大させる土壌となったのです。

結局のところ、善意は裏切られました。最初から、誰かの利益を最大化するための構造の中に「部品」として組み込まれていたのです。 『DOPESICK』が描き出したのは、善意の無価値さではありません。むしろ、人間が持つ「信じる力」がいかに強く、それゆえにいかに脆く利用されやすいかという警鐘です。善意があったからこそ、この悲劇は深く、長く、社会の隅々まで根を張ってしまったのです。この作品は、その取り返しのつかない過程を、被害者たちの痛みに寄り添いながら静かに告発しているのです。

 

転換点 ― 真実が疑念から「証拠」へと変わった瞬間

この危機は長い間、明確な犯罪としてではなく、「説明できない現象」として存在していました。
医師たちは患者の変化に戸惑い、捜査官たちは街で広がる依存の現実を目にしていました。
しかし、その原因を明確に示すものは存在していませんでした。

なぜなら、オキシコンチンは合法的に承認された医薬品であり、その安全性は制度によって保証されているものとされていたからです。

その前提を支えていたのが、「依存性は1%未満である」という説明でした。

この数字は、広く知られた科学的事実として提示されていました。
しかしその実態は、短い書簡を拡大解釈したものであり、本来、長期使用の安全性を証明するものではありませんでした。

それでも企業は、この書簡を科学的根拠として繰り返し使用しました。

さらに、医師向けの資料には、依存のリスクを最小限に見せるためのグラフが提示されていました。
それらは一見すると客観的なデータのように見えましたが、実際には「グラフ(データ)の捏造」(倭小化されていた)という形でした。

それは事実の提示というよりも、認識を形成するための資料でした。

依存の兆候が現れた場合にも、その現象は別の形で説明されました。

それが「擬似依存(Pseudo-addiction)」という概念でした。

これは、患者が薬を求める行動は依存ではなく、「痛みが十分に治療されていない状態」によるものであるという説明でした。
つまり、問題は薬そのものではなく、投与量が不足していることにあるとされたのです。

その結果、医師たちは薬の量を増やすよう促されました。

依存は警告ではなく、治療が不十分である証拠として再解釈されていきました。

そして同時に、もう一つの前提が繰り返し提示されていました。

問題があるのは薬ではなく、それを正しく使用しない人間である、という考え方です。

この主張によって、薬そのものは維持され、責任は個人へと移されていきました。

その後、オキシコンチンをめぐる問題が明らかになるにつれ、FDAはついに「ブラックボックス警告」を追加します。

これは医薬品における最も強い警告であり、依存や死亡のリスクがあることを、制度として正式に認めたものでした。
長い間「安全」とされてきた薬に対し、その危険性が初めて明確に示された瞬間でした。

しかし同時に、ラベルには「継続的かつ長期的な使用」が可能であることも明記されます。

それは、この薬が短期的な治療だけでなく、慢性的な痛みに対して長期間使用されることを、制度が認めたことを意味していました。

危険性が警告される一方で、長期使用の正当性も与えられた――
この転換は、問題が明らかになったあともなお、薬が広く使われ続ける構造が維持されたことを示していました。

この構造を内側から見ていたのが、ビリー・カトラーでした。

彼は販売員として、その説明を信じ、医師たちに伝えてきました。
しかし現実との乖離に気づき始めたとき、彼の立場は変化していきます。

彼は会社を離れます。

そして重要だったのは、彼が秘密保持契約(NDA)に完全に拘束されていなかったことでした。

彼は当初、自らの関与を否定します。
しかしやがて、社内で使用されていた教育用ビデオを検察へと提供します。

その映像には、販売員たちが医師の懸念にどのように対応すべきかを学ぶ様子が記録されていました。
そこでは依存の危険性よりも、医師の不安を和らげる方法が強調されていました。

それは単なる情報共有ではなく、認識を形成するための訓練でした。

この証拠は、疑念を現実へと変えました。

それまで断片だったものが、構造として認識され始めます。

そういった動きもあり、上級幹部たちの起訴が行えるかもしれないという段階にきました。

しかし、その後に訪れたのは、完全な断罪ではありませんでした。

企業と検察の間で交渉が行われ、最終的には和解という形で決着が図られます。

それは責任の一部を認めるものでありながら、同時に、この構造のすべてが解体されたわけではないことも意味していました。

それでも、この瞬間を境に、もう一つの変化が始まっていました。

それは社会の側で起きた変化でした。

依存によって命を失った人々の家族は、沈黙しませんでした。
企業による寄付や慈善活動は、それまで社会的な評価を支えるものでした。

しかし遺族たちは問い始めます。

その寄付は、何によって生み出されたものなのか。

その問いは、制度の外側から発せられました。

そしてエピローグでは、その後の変化が静かに示されます。

かつて称賛されていた名前は、次第に公共の場から取り除かれていきます。
それまで美術館など各機関に掲げられていたサックラーの名前は削除され、寄付は拒否されるようになっていきました。

それは法的な判決ではなく、社会の認識の変化でした。

それは、前提が疑われ、証拠が示され、そして社会が理解を始めることで、ようやくその輪郭を現していきました。

それは単なる終わりではなく、長い間見えなかったものが、ようやく見えるようになった瞬間でした。

サミュエル・フィニックス医師(マイケル・キートン)― 信じたことの代償

誠実な町医者として患者に寄り添っていた彼は、薬を信じ、処方し、そして自らもその影響を受けていきます。
彼の物語は、「信じた医師」の物語でした。

物語の終盤、彼は依存症に苦しむエリザベス・アンを治療へと連れて行く決断をします。
それは医師として誰かを救おうとする行動であると同時に、自らが救えなかったベッツィへの償いでもあったように感じられました。

そして彼自身もまた、依存症と向き合うことになります。

人の身体だけでなく、その人生にある様々な「痛み」を取り除きたいという思い。
そして、「自分の人生を生きてほしい」というベッツィの父の言葉は、彼自身の再生へと繋がっていきました。

彼は依存症を克服し、再び医師免許を取得します。
そして古いスクールバスを買い取り、さらには、依存症患者のためのクリニックを開業しました。

そこには、かつて彼のクリニックで共に働いていた看護師も戻ってきます。

それは失われたものを取り戻すことではなく、
失ったものと共に生きながら、それでもなお誰かを救おうとする選択でした。

その姿は、彼が最後まで医師であろうとしたこと、
そしてこの物語が単なる喪失の記録ではなく、理解と償い、そして再生の物語でもあったことを静かに示していました。

ベッツィ・マラム(ケイトリン・デヴァー) ― 奪われていった未来と、居場所を探していた人生

ウェストバージニアの炭鉱で働き、自分の人生を築こうとしていた女性。
同性愛者としての孤独も抱えながら生きていた彼女は、怪我をきっかけにオキシコンチンを処方されます。

それは快楽を求めて自ら選んだものではありませんでした。
誰の身にも起こり得る怪我の治療として、医師によって処方されたものでした。

やがて依存に苦しみ、最終的にはヘロインによるオーバードーズによって命を落とします。

彼女は、身体的な痛みだけでなく、自分自身のままで生きることが容易ではない社会の中で、孤独を抱えて生きていました。
それでも、両親は最終的に彼女を拒絶するのではなく、娘を助けたいという思いで受け入れようとします。

しかし、その時間はあまりにも短いものでした。

この作品は、依存が単なる快楽の結果ではなく、信頼、孤独、そして構造の中で生まれていくものであることを、彼女の人生を通して静かに描いていました。

彼女の物語は、この危機が統計ではなく、「ひとつの人生」であったことを示していました。

 

ビリー・カトラー(ウィル・ポールター)― 理解し始めた側にいた人間

販売員として薬を広めていた彼は、やがて現実との乖離に気づきます。

彼は最初から真実を知っていたわけではありませんでした。
会社が示すデータを信じ、それが医療に貢献するものだと信じていました。

しかし、依存に苦しむ人々の現実を目の当たりにする中で、自分が広めてきたものの意味を理解し始めます。

彼は社内の教育用テープを持ち出しますが、その後も秘密保持契約(NDA)への署名を拒否します。
それは退職金を失うことに加えて、会社から訴えられる可能性があることを意味していましたが、それでも彼は沈黙と引き換えの補償を受け入れませんでした。

リックとランディから証拠の提出を求められた際も、彼は当初、その存在を否定します。
しかし、「消費者の敵はあなただ」という言葉を受け、後日、匿名でテープを送付します。

彼はすぐに告発者になったわけではありませんでした。
それでも、自分が関わってしまった現実から目を背け続けることはできませんでした。

その選択は、過去を消すものではありません。
しかしそれは、理解したあとに何もしないという選択を拒んだ瞬間でした。

彼の物語は、この危機が単なる加害と被害の構図ではなく、
信じた側の人間もまた、その責任と向き合うことになるという現実を示していました。

 

ブリジット・マイヤー(ロザリオ・ドーソン) ― 現実を見続けた捜査官

現場で危機の広がりを見続けた捜査官。
彼女は、この問題が単なる違法薬物の問題ではないことを理解し始めます。

彼女が向き合っていたのは、目の前の犯罪だけではありませんでした。
その背後にある企業、そしてそれを承認し、支えていた制度そのものでもありました。

しかし彼女の戦いは、外側だけにあるものではありませんでした。

組織の中で、女性であるというだけで軽視されることもありました。
強硬な姿勢は時に問題視され、その正当性ではなく、その態度そのものが問われることもありました。

そしてその影響は、彼女の私生活にも及びます。
最も理解者であるはずだった夫との関係も、やがて終わりを迎えることになります。

それでも彼女は、現実から目を逸らすことを選びませんでした。

リック・マウントキャッスル(ピーター・サースガード)&ランディ・ラムザイヤー(ジョン・フーゲナッカー)、そしてジョン・ブラウンリー( ジェイク・マクドーマン)― 真実に辿り着こうとした人々

彼らの仕事は、単なる薬物犯罪の取り締まりではありませんでした。
彼らが向き合っていたのは、合法的に販売されていた薬の背後にある「欺き」が存在するのかどうかという問題でした。

それは極めて困難な調査でした。

なぜなら、オキシコンチンは違法薬物ではなく、正式に承認された医薬品だったからです。
それを製造・販売している企業もまた、合法的な存在でした。

つまり彼らは、「合法の形をした問題」を証明しなければなりませんでした。

リックとランディは、膨大な資料を読み続けます。
販売記録、社内文書、医療データ。
その一つひとつを確認しながら、そこに意図的な欺きが存在するのかを探していきます。

調査を続ける中で、彼らは次第に確信を深めていきます。

企業は、薬の依存性についての危険性を十分に認識していた可能性がある。
それにもかかわらず、「依存性は低い」という前提のもとで販売を拡大していた。

もしそれが事実であれば、それは単なる過失ではなく、意図的な欺きである可能性がありました。

彼らはその証拠を探し続けます。

その過程で、彼ら自身もまたオキシコンチンの現実に直面します。
ランディ自身も、がんの治療の中でオキシコンチンを処方されそうになりますが、断ることができました。

それは、この問題が決して遠い存在ではないことを示していました。
この薬は特別な誰かのためのものではなく、誰の人生にも入り込む可能性のあるものでした。

彼らの調査は、やがてパデュー・ファーマの内部構造へと近づいていきます。

しかしそこには、強い抵抗がありました。

企業の法務チーム、政治的な圧力、そして制度そのものの壁。
調査を進めることは、単に事実を探すことではなく、それを認めさせるための戦いでもありました。

その中で、ジョン・ブラウンリーは重要な役割を果たします。

彼は上司として、リックとランディの調査を支えます。
それは容易な決断ではありませんでした。
巨大企業を相手にすることは、政治的にも、個人的にも大きなリスクを伴うものでした。

それでも彼は、調査を止めませんでした。

彼らが守ろうとしていたのは、単なる法律ではありませんでした。
それは、真実そのものでした。

彼らの存在は、この物語の中で「理解したあとに証明しようとした人々」として描かれています。

 

リチャード・サックラー ― 構造を確立し、それを拡大させた人物

彼はかつて、自らの野心が「イカロス」のような結末を招くかもしれないと忠告されていました。

イカロスとは、ギリシャ神話の中で、空を飛ぶための翼を手に入れながらも、太陽に近づきすぎたことで翼を失い、墜落した人物です。
それは、自らの力を信じすぎたことによって、限界を越えてしまう人間の傲慢さの象徴でもあります。

しかし彼は、その忠告を退けます。

彼の中では、オキシコンチンの成功は疑う余地のないものであり、それを止める理由は存在しませんでした。
依存や死亡が問題として認識されるようになったあとも、彼は販売の拡大を止めることはありませんでした。

むしろ、その成功を維持し続けることに固執していました。

しかし、やがて企業の責任が法的に問われる可能性が現実のものとなります。

そのとき彼は、それまで強く握り続けていた社長の地位を手放し、腹心の部下であったマイケル・フリードマンにその職を引き継がせます。

それは自らが主導してきた構造の責任から距離を置く行為でもありました。

彼が本当に守ろうとしたのは、会社そのものではなく、自らの立場と存在だったようにも感じられます。

彼は最後まで、自らの選択を否定することはありませんでした。

彼が信じていたのは、薬の価値であり、その成功でした。
そしてその確信は、最終的に彼自身を、その結末へと導いていきました。

かつて警告された通り、彼はイカロスとなりました。

それは、空を飛ぼうとしたことそのものではなく、
太陽に近づいていることを知りながらも、なお飛び続けることを選んだ意志――
その飛翔を止めなかった確信と、エゴと利益への欲望がもたらした帰結だったのかもしれません。

彼は構造を作り上げた人物でした。
しかし、その構造の帰結を、最後まで自らのものとして引き受けることはありませんでした。

遺された人々 ― それでも残り続ける現実

この危機の中で苦しんだのは、依存症に陥った本人たちだけではありませんでした。
その家族、そして遺された人々もまた、終わることのない現実の中に取り残されていました。

パデュー・ファーマの幹部たちとの話し合いの場で、ベッツィの母親は、自らの本心を語ります。

「娘が亡くなったとき、正直に言えば、ほっとした部分もあった。
それは、娘が長い苦しみから解放されたと思ったから。

でも今は逆に自分たちが、その喪失感によって苦しめられている」と。

それは、依存症がひとりの人間の人生だけでなく、
その周囲にいる人々の時間そのものを変えてしまうことを示していました。

この物語は、依存症の物語であると同時に、
遺された人々の物語でもありました。

それを聞いたにも関わらず、パデュー・ファーマの幹部たちは、自分たちに都合のいい話しかしませんでした。極めつけに、町に対して寄付金の申し出を行います。お金で解決しようとしたのです。
依存症患者のケアには多くの費用が必要であり、小さな町にとってそれは決して小さな額ではありませんでした。

それでも、町の人々と遺族たちは、その申し出を拒否します。

彼らにとってその資金は、支援ではなく、
自分たちの喪失の上に成り立ったもの――“bloody money”だったからです。

彼らは金銭による解決ではなく、起きたことそのものと向き合うことを選びました。
そして抗議の声を上げ続けます。

 

演技 ― この物語に「現実」を与えていたもの

『DOPESICK』がここまで深く心に残る作品となっている理由のひとつは、俳優たちの演技にあります。
この物語は構造や制度を描いた作品でありながら、それを単なる説明に終わらせず、一人ひとりの人生として感じさせる力を持っていました。

その中心にいたのが、サミュエル・フィニックス医師を演じたマイケル・キートンです。

彼の演技は、決して大きな動きや劇的な表現に頼るものではありませんでした。
患者と向き合うときの穏やかな声、迷いを抱え始めたときのわずかな沈黙、そして自らも依存に巻き込まれていく過程で見せる静かな変化。
そのすべてが、彼が信じていたものが少しずつ揺らいでいく過程を、現実のものとして感じさせていました。

彼の存在によって、この物語は単なる社会問題ではなく、「信じた医師の物語」として成立していました。

リック・マウントキャッスルを演じたピーター・サースガードもまた、この作品の重要な軸を支えていました。
彼の演技は、派手な正義の表現ではなく、理解しようとする姿勢そのものに重きを置いていました。
資料を読み続ける姿、疑念を確信へと変えていく過程、その静かな積み重ねが、この物語の現実性を支えていました。

リチャード・サックラーを演じたマイケル・ストゥルバーグの演技は、特に印象的でした。

彼は感情的な悪としてではなく、確信を持って行動する人物としてサックラーを描いていました。
怒りや葛藤ではなく、自らの正しさを疑わない静かな確信。
その表現によって、彼は単なる悪役ではなく、「構造を信じていた人物」として存在していました。

ビリー・カトラーを演じたウィル・ポールターは、構造の内部にいた人間の変化を繊細に表現していました。
最初は自信に満ちた販売員として登場しながらも、現実を理解し始めたときの戸惑いと沈黙。
その変化は劇的ではなく、だからこそ現実的でした。

ランディ・ラムザイヤーを演じたジョン・フーゲナッカーもまた、この物語に重要な重みを与えていました。
彼の存在は、この危機が遠い問題ではなく、誰にでも起こり得る現実であることを示していました。

ブリジット・マイヤーを演じたロザリオ・ドーソンは、この物語の中で「目撃者」としての役割を体現していました。
彼女の演技は、怒りや感情の爆発ではなく、現実を見続けることの重さを伝えていました。

そして、ベッツィ・マラムを演じたケイトリン・デヴァーの演技は、この作品の感情的な核を担っていました。

彼女はベッツィを、依存に陥る人物としてではなく、生きようとする人物として演じていました。
炭鉱で働く日常、愛する人と過ごす時間、そして少しずつ変化していく姿。
そのすべてが自然であり、だからこそ、彼女が失っていくものの大きさがより強く伝わってきました。

彼女の演技によって、この危機は統計ではなく、ひとりの人間の人生として感じられるものになっていました。

『DOPESICK』は構造を描いた作品ですが、
それを「人間の物語」として成立させていたのは、俳優たちの存在でした。

彼らの演技は、この物語を理解するものから、「感じるもの」へと変えていました。

 

マイケル・キートンと『DOPESICK』 ― 個人的な喪失と、この役を演じた理由

マイケル・キートンにとって、『DOPESICK』は単なる役柄ではありませんでした。

2022年のSAGアワードで主演男優賞を受賞した際、彼はこの賞を、自らの甥マイケルと妹パムに捧げると語りました。

彼の甥マイケルは、2016年、フェンタニルとヘロインのオーバードーズによって亡くなっています。
まだ30代半ばでした。

「甥を薬物で失いました。本当に辛いことです。」

彼はそう語っています。

キートンはインタビューの中で、依存症とは単なる個人の問題ではないと述べています。

依存症から回復するためには、まず問題が存在することを認めなければならない。
しかしそれは個人だけでなく、社会そのものにも当てはまることだと語りました。

経済的、社会的、そして構造的な不均衡が存在する世界の中で、公平なものとの中間はほとんど存在していないということ。依存症は決して特別な人間だけに起きるものではない。
それは、善良な人々にも起きる「病」であると。

彼はまた、依存症とはすべてを支配してしまうものだとも語っています。

朝起きた瞬間から、次に薬をどう手に入れるかだけを考える。
そして薬を手に入れたあとも、次にどうやってそれを手に入れるかを考え続ける。
それは人生そのものを覆い尽くしてしまうものだと。

彼がこの役を引き受けたのは、脚本の完成度の高さだけでなく、その物語が現実と深く結びついていたからでした。

パデュー・ファーマについて調べる中で、彼はその構造を知り、
それが個人の問題ではなく、より大きな貪欲さによって支えられていたことを理解したと語っています。

『DOPESICK』における彼の演技は、役を演じることだけではなく、
彼自身が経験した喪失と向き合う行為でもあったように感じられました。

 

なぜこの物語を記録しておきたいのか

『DOPESICK』は、過去に起きた出来事を描いた作品です。
しかし同時に、それは決して過去だけの物語ではないように感じられました。

この危機は、完全な終わりを迎えたとは言えません。

オキシコンチンは、最初から無作為に広められたわけではありませんでした。
それは炭鉱業のように怪我が日常的に発生する地域、そして医療情報が十分に行き渡らない地方のコミュニティを中心に広められていきました。

そこでは痛みは生活の一部であり、痛みを取り除く薬は、希望として受け入れられました。

それは偶然ではなく、明確なマーケティング戦略の中で行われていました。

信頼される医師を通して薬が処方され、
制度によって承認され、
安全であると説明された薬は、疑われることなく社会の中に入り込んでいきました。

そしてその影響は、今もなお続いています。

現在も、オピオイド系薬物によって命を落とす人々が存在しています。
依存症に苦しむ人々も後を絶ちません。

それは単なる個人の問題ではなく、
かつて作られた構造の延長線上にある現実のように感じられます。

企業、違法な売人、そして時には医療の現場の中にも、
その構造の中で利益を得ようとする存在があり続けています。

多くの著名人が、オピオイドやフェンタニルによって命を落としてきました。
その死は広く報じられ、危険性は知られているはずでした。

それでもなお、この問題は終わっていません。

『DOPESICK』が描いていたのは、ひとつの危機の始まりでした。
それは、薬そのものだけでなく、信頼、制度、そして利益が結びついたとき、何が起きるのかという始まりでした。

この作品を観て強く感じたのは、構造は目に見えないまま存在し続けるということです。
そしてその影響は、時間が経ったあとも、静かに現実の中に残り続けます。

エピローグで、サックラーの名前が公共の場から消されていく場面があります。
それは終わりを示すものではなく、

何が起きたのかを記憶し続けようとする行為のように感じられました。

名前は消えても、起きたことは消えません。

そしてその影響は、今もなお続いています。

だからこそ、この物語を記録しておきたいと思いました。

それは過去を振り返るためだけではなく、
何が始まり、何が広がり、そして何が今も続いているのかを、忘れないために。

『DOPESICK』は、終わった物語ではありません。
それは、今もなお続いている現実の一部を映した物語でした。

だからこそ、この作品は、記録されるべき物語だと感じました。

視聴情報(サブスクリプション)

(配信状況は変わる場合があります)

・Disney+で配信中
・全8話

 

批評サイトの評価

※評価は執筆時点のものです。

・Filmarks:★☆4.3/5.0

・IMDb:★☆8.6/10

 

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