Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『アルバート氏の人生(Albert Nobbs)』―本当の自分を隠して生きるということ

 

人生には、「本当の自分」で生きることさえ許されない時代がありました。

『アルバート氏の人生』は19世紀アイルランドを舞台に、女性でありながら男性として生き続けた一人の人物の人生を描いたヒューマンドラマです。

主演は名優グレン・クローズ。本作は彼女が長年温め続けた企画としても知られ、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされました。また、同じく男装した女性を演じたジャネット・マクティアも助演女優賞にノミネートされ、その圧倒的な演技力が作品を支えています。

派手な展開はありません。しかし、その静かな物語の中には、「生きること」「愛すること」「自分らしくあること」の重みが丁寧に描かれています。

 

あらすじ(ネタバレなし)

19世紀のアイルランド・ダブリン。

ホテルのレストランで住み込みのウェイターとして働くアルバート・ノッブス(グレン・クローズ)は、誠実で几帳面な仕事ぶりから周囲の信頼を集めていました。

しかし、誰にも知られてはいけない大きな秘密を抱えています。

実はアルバートは女性でした。

幼い頃に過酷な出来事を経験し、生き延びるために男性として働く道を選び、そのまま30年以上もの歳月を男性として生き続けてきたのです。

慎ましく貯金を続け、いつか小さな煙草屋を開き、穏やかな暮らしを送ることだけを夢見ていました。

そんなある日、ホテルの改装にやって来たペンキ職人ヒューバート・ペイジ(ジャネット・マクティア)と出会います。

彼もまた、アルバートと同じ秘密を抱えながら男性として生きる女性でした。

さらに、メイドのヘレン(ミア・ワシコウスカ)との出会いによって、アルバートは初めて「家庭を持つ」という夢を抱くようになります。

しかし、人の思いは必ずしも願い通りには進まず、小さな希望は次第に思いもよらぬ運命へと向かっていきます。

誰にも知られず生きてきた一人の人生が、静かに、そして切なく描かれていきます。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

この作品を観てまず最初に思ったことは、グレン・クローズの圧倒的な演技力と、アルバートという人物が歩んできた人生のあまりにも切ない重みでした。

現代では性自認やジェンダーについて様々な議論がありますが、本作のアルバートは、自分の意思で男性として生きることを選択したというより、「女性のままでは生きていけなかった」時代に翻弄された人物です。

14歳の時に集団暴行を受け、社会の中で女性が一人で働き、自立して生きることが極めて困難だった時代。男性として生きることは、アルバートにとって自由ではなく、生き延びるための唯一の方法でした。

だからこそ、アルバートは誰よりも真面目で、人を疑うことを知りません。

ヘレンとの結婚を夢見た理由も恋愛感情だけではなく、「家族」という居場所を持ちたかったからでしょう。

煙草屋を開き、夫婦として静かに暮らす。

その夢は現代では当たり前に思えるほど慎ましいものですが、アルバートにとっては人生をかけた希望そのものでした。

しかし、その純粋さゆえにジョーに利用され、お金を巻き上げられ、最後には頭を打ったことが原因で命を落としてしまいます。

さらに胸が痛むのは、その死後です。

ホテルの女主人ベイカー夫人はアルバートが30年以上かけて貯めた大金を自分のものにしてしまいます。

アルバートが人生を犠牲にして築き上げた夢は、本人の知らないところで奪われ、誰にも守られることはありませんでした。

この結末はあまりにも残酷ですが、作品は完全な絶望だけでは終わりません。

ヒューバート・ペイジはアルバートの思いを知り、そしてヘレンの境遇にも手を差し伸べようとします。

アルバートが最後まで望んでいた「誰かと共に生きること」は、自分自身では叶わなかったものの、その優しさは確かに誰かへ受け継がれていくのです。

また、本作で特に印象深かったのが、ヒューバートとアルバートが女性の服を着て海辺へ出掛ける場面でした。

長年閉じ込め続けた本来の姿。

最初はぎこちなく歩く二人が、少しずつ笑顔を取り戻していく様子は、本作の中でも数少ない幸福な時間です。

しかし、その楽しさも束の間で終わります。

現実へ戻るために再び男性の服へ着替える場面は、自由とは何かを静かに問いかけているようでした。

この映画は社会問題を声高に訴える作品ではありません。

むしろ、一人の人間の人生を丁寧に見つめることで、「人は何のために生きるのか」「幸せとは何なのか」を観る者に問いかけています。

アルバートは決して強い人ではありません。

それでも、自分を見失わず、誰かを恨み続けることもなく、誠実に生き続けました。

その姿勢はとても美しく、同時にあまりにも切なく、観終わったあともしばらく胸に残り続ける作品でした。

 

演技

グレン・クローズの演技は、本作最大の見どころと言っても過言ではありません。

男性を演じるのではなく、「男性として生き続ける女性」を演じるという非常に繊細な役作りが求められる難役ですが、その所作や歩き方、視線、声の抑揚まで徹底的に作り込まれています。

特に印象的なのは、ヒューバートとともに女性の服を着る場面です。

女性として振る舞うことすら忘れてしまったアルバートの戸惑いが、言葉ではなく身体の動きだけで伝わってきます。

また、喜びや悲しみを大きく表現するのではなく、小さな表情の変化だけで感情を積み重ねていく演技はまさに圧巻でした。

グレン・クローズだからこそ成立した作品と言えるでしょう。

 

この映画がおすすめな人

  • 静かなヒューマンドラマが好きな方
  • グレン・クローズの名演を堪能したい方
  • 人生やアイデンティティを描いた作品が好きな方
  • 『キャロル』『リリーのすべて』『秘密の森の、その向こう』などが好きな方
  • 心に余韻が残る映画を探している方

評価

※評価は執筆時点のものです。

  • Filmarks:★★★☆☆(3.4/5.0)
  • IMDb:★★★★★★☆☆☆☆(6.7/10)