Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『ONCE ダブリンの街角で(Once)』― ダブリンの街角から始まった、二人の再出発

 

ダブリンの街角でギターを弾く男と、そこに偶然足を止めたチェコ移民の女。

名前すら明かされない二人が音楽を通じて出会い、互いの人生にほんの少しだけ入り込み、やがてそれぞれの場所へ戻っていく――。

『ONCE ダブリンの街角で』は、そんな小さな出会いを描いた音楽映画です。

監督は、のちに『はじまりのうた』や『シング・ストリート 未来へのうた』を生み出すジョン・カーニー。本作は、彼の名前とその独特な音楽映画のスタイルを世界に知らしめた作品といってもいいでしょう。

大きな事件が起こるわけでも、劇的な展開が連続するわけでもありません。

しかし、街角で奏でられるギター、楽器店のピアノ、スタジオでひとつになっていく音――その一つひとつが登場人物たちの言葉になり、やがて彼らの止まっていた人生まで動かしていきます。

音楽によって誰かとつながること。

そして、その出会いによって、もう一度自分の人生を歩き始めること。

ジョン・カーニー監督がその後も描き続けるテーマの原点が、この小さな作品には詰まっています。

 

あらすじ(ネタバレなし)

アイルランド・ダブリン。

30代の男(グレン・ハンサード)は、父親の掃除機修理店を手伝いながら、グラフトン・ストリートでギターを弾き、ストリート・ミュージシャンとして活動していました。

しかし、音楽だけで生活できるほど成功しているわけではありません。

そんな彼の演奏に、ある日ひとりの女性が足を止めます。

チェコからやってきた移民の女(マルケタ・イルグロヴァ)でした。

花や雑誌を売りながら生活する彼女もまた、音楽を愛し、ピアノを弾いていました。

男が掃除機の修理をしていることを知った女は、翌日、本当に壊れた掃除機を持って彼の前に現れます。

やがて二人は、女が時折ピアノを弾かせてもらっている楽器店へ向かいます。

男が自作曲を奏で、女がピアノを重ねる。

最初はぎこちなかった二つの音が、少しずつひとつの曲になっていきます。

その曲は「Falling Slowly」。

音楽を通じて心を通わせていく二人でしたが、それぞれには忘れられない人と、簡単には手放せない過去がありました。

男にはロンドンへ去っていった元恋人がいます。

そして女にもまた、男の知らない事情がありました。

それでも二人は一緒に曲を作り、仲間を集め、やがて自分たちの音楽を形に残そうと動き始めます。

偶然出会った二人が奏でる音楽は、止まっていた彼らの人生を少しずつ前へと動かしていくのでした。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『はじまりのうた』や『シング・ストリート 未来へのうた』など、数々の素晴らしい音楽映画を生み出してきたジョン・カーニー監督。

その名前と才能が世界に広く知られるきっかけになった作品こそ、『ONCE ダブリンの街角で』だったのではないでしょうか。

本作にも、その後のカーニー作品へと受け継がれていくものが、すでにはっきりと存在しています。

それは、音楽そのものを成功のための道具としてではなく、人と人を結びつけ、傷ついた人間をもう一度人生へ戻していく力として描いていることです。

この映画が胸に響くのは、決して「泣かせよう」としてくるからではありません。

むしろ正反対です。

大げさな演出もなければ、感動を強調するような台詞もほとんどありません。

ダブリンの街を歩き、楽器店で演奏し、バスに乗り、仲間たちとスタジオへ入り、曲を作る。

ただそれだけの出来事を追っているようにも見えます。

それなのに、気がつくと二人の音楽が心の中に入り込んでいます。

それこそが、この映画の素晴らしさだと思います。

本作で特に印象的なのは、男と女が本当に大切なことを言葉だけでは伝えていないことです。

二人の関係を最初に大きく動かすのも、会話ではありません。

楽器店で演奏する「Falling Slowly」です。

男がギターを弾き、女がピアノでその音を拾っていく。

最初は男の曲だったものに、女の音が重なっていきます。

そしていつの間にか、それは「彼の曲」ではなく「二人の曲」になっています。

この場面だけで、二人の関係がほとんど説明されてしまうのです。

ジョン・カーニー監督の音楽映画では、音楽が単なるBGMになりません。

人間が言葉にできないものを音楽が代わりに語ります。

『はじまりのうた』でも、『シング・ストリート 未来へのうた』でも、その特徴は強く感じられます。

そして、その原点ともいえるものが本作にはあります。

二人が互いの心へ入っていく瞬間を、映画は「説明」するのではなく「演奏」してみせるのです。

そして面白いのが、主人公二人に最後まで固有の名前が与えられていないことです。

彼らはただ「男」と「女」。

だからこそ、この物語には不思議な普遍性があります。

夢を諦めきれない人。

昔の恋を忘れられない人。

生活のために働きながら、自分の好きなものを手放せずにいる人。

家族に対する責任と、自分自身の気持ちの間で揺れている人。

程度の差こそあれ、誰もが二人のどこかに自分を重ねることができるのではないでしょうか。

これは特別な才能を持ったスターたちの物語ではありません。

人生の途中で立ち止まってしまった、ごく普通の二人の物語です。

だからこそ、彼らが音楽を奏でた瞬間だけ少し輝いて見えることに、大きな意味があります。

普通の恋愛映画なら、ここから二人が結ばれる方向へ進んでいくでしょう。

お互いに惹かれ合っている。

音楽という強い結びつきがある。

一緒にいる時間は楽しい。

それなら最後は二人が一緒になる。

そう考えてしまいます。

しかし、『ONCE ダブリンの街角で』はそうしません。

女の夫はダブリンへやってきます。

そして男はロンドンへ向かいます。

二人は別々の人生を選びます。

この結末が本当に素晴らしいと思います。

なぜなら、人との出会いの価値は、その人と最後まで一緒にいることで決まるわけではないからです。

ほんの短い時間しか一緒にいなかったとしても、その人との出会いによって自分が変わることがあります。

自信を取り戻すこともあります。

忘れていた夢を思い出すこともあります。

もう一度前を向けることもあります。

男と女は、互いにとってそういう存在だったのではないでしょうか。

本作には、いわゆるハリウッドスターが並んでいるわけではありません。

しかし、それがむしろこの作品には合っています。

もし有名スターが演じていたら、私たちは「俳優」を見てしまったかもしれません。

ところが本作では、本当にダブリンの街角で音楽を奏でている二人を偶然見つけたような感覚があります。

カメラも過剰に美しく見せようとはしません。

街は街のまま。

人は人のまま。

その素朴さの中から音楽だけが立ち上がってきます。

そしてグレン・ハンサードとマルケタ・イルグロヴァが実際のミュージシャンであることが、演奏場面に圧倒的な説得力を与えています。

演技をしてから歌うのではありません。

歌うことそのものが演技になっています。

これは豪華なセットや大きな予算では作れない、本作だけの魅力だと思います。

だからこそ『ONCE ダブリンの街角で』は、単なる恋愛映画でも、単なる音楽映画でもありません。

音楽に心を躍らされ、二人の関係に少し切なくなり、それでも最後には不思議と前を向ける。

まさに背中をそっと押してくれるような一本です。

ぜひ多くの方に観ていただきたい作品です。

 

演技

グレン・ハンサード ― 男

男を演じるのは、アイルランドのミュージシャン、グレン・ハンサードです。

本作では「俳優として上手に演じている」という感覚より、本当にそこにいるミュージシャンの人生を覗いているような自然さがあります。

特に素晴らしいのは、やはり歌唱場面です。

彼の歌声には整いすぎていない力強さがあります。

怒りや後悔、寂しさ、希望といった感情が、声そのものから飛び出してくるようです。

マルケタ・イルグロヴァ ― 女

女を演じたマルケタ・イルグロヴァもまた、本作に欠かすことのできない存在です。

派手な演技をするわけではありません。

むしろ、表情や視線、言葉を飲み込む瞬間に彼女の感情が現れます。

意味を教えないあのわずかな時間に、彼女が抱えている気持ちのほとんどが込められているように感じます。

そしてピアノを弾く姿には、彼女という人物のもうひとつの人生が見えてきます。

母親であり、妻であり、移民として生活を支える女性。

しかし同時に、彼女自身も音楽家なのです。

二人が「俳優」と「役」を超え、本当に音楽を通して会話しているように見えること。

それこそが、この映画最大の強みなのだと思います。

 

この映画がおすすめなひと

  • 『はじまりのうた』『シング・ストリート 未来へのうた』が好きな方
  • 音楽が物語そのものになっている映画が好きな方
  • 派手ではないインディーズ映画が好きな方
  • 大人の切ない恋愛映画を観たい方
  • 「結ばれること」だけをゴールにしない恋愛映画が好きな方
  • 夢を諦めかけている人の再生を描いた作品が好きな方
  • 観終わったあと静かな余韻が残る映画を探している方

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.7 / 5.0
IMDb:★ 7.8 / 10

 

視聴情報(サブスクリプション)

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関連作品

 

『シング・ストリート 未来へのうた』

ジョン・カーニー監督が、ダブリンを舞台に、音楽と青春、そして未来へ踏み出す少年たちを描いた作品です。

本作の「音楽が人間を前へ進ませる」というテーマが、より青春映画として大きく広がった一本ともいえるでしょう。

 

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『はじまりのうた』

 

人生につまずいた音楽プロデューサーと、恋人との関係を失った女性シンガーソングライター。

二人がニューヨークの街そのものをスタジオにしてアルバムを作っていく作品です。

『ONCE ダブリンの街角で』と同じく、男女の出会いを描きながら、そのゴールを安易な恋愛関係に置かないところにもジョン・カーニー監督らしさを感じます。

 

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