Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『フィラデルフィア(Philadelphia)』―偏見の向こう側で、人は人を理解できるのか

 

1993年に公開された『フィラデルフィア』は、HIV/AIDSと同性愛者に対する偏見を真正面から描いた法廷ドラマです。

主人公は、大手法律事務所で働く優秀な弁護士アンドリュー・ベケット。彼は同性愛者であり、AIDSを発症していることを職場に隠して働いていました。しかし、その事実を知られたことをきっかけに、不当に解雇されたのではないかと考えるようになります。

本作が印象的なのは、単純に「差別する側」と「差別される側」を描くだけではないところです。

アンドリューの弁護を引き受けるジョー・ミラーもまた、当初は同性愛やAIDSに対して強い偏見と恐怖を持っています。

だからこそ、この映画はアンドリューが尊厳を取り戻すための物語であると同時に、ひとりの人間が自分の中にある偏見と向き合い、変わっていく物語でもあります。

公開から30年以上が経った現在では、HIV/AIDSについての医学的知識や治療環境は大きく変化しています。それでも、「知らないものを恐れること」「自分とは違う人を遠ざけてしまうこと」という問題は決して過去のものではありません。

だからこそ『フィラデルフィア』は、今観ても強い意味を持つ作品なのだと思います。

 

あらすじ|ネタバレなし

アンドリュー・ベケット(トム・ハンクス)は、フィラデルフィアの大手法律事務所で働く優秀な弁護士です。

順調にキャリアを築き、重要な案件を任されるほど高く評価されていましたが、彼には職場の人々に隠していることがありました。

アンドリューは同性愛者であり、AIDSを発症していたのです。

ある日、彼の顔に現れた病変に同僚のひとりが気づきます。

その後、アンドリューが担当していた重要案件の書類が突然行方不明になるトラブルが発生します。書類は期限ぎりぎりで発見され、訴訟そのものは無事に提起されますが、事務所はアンドリューの仕事上の能力に問題があったとして彼を解雇します。

しかしアンドリューは、解雇の本当の理由が別にあるのではないかと考えます。

自分がAIDS患者であることを知られたために解雇されたのではないか――。

不当解雇を訴えることを決意したアンドリューは、複数の弁護士に代理人を依頼しますが、なかなか引き受けてもらえません。

そのひとりが、不法行為を専門とする弁護士ジョー・ミラー(デンゼル・ワシントン)でした。

ジョー自身も同性愛者に偏見を持ち、AIDSについて正しい知識を十分に持っていなかったため、最初は依頼を断ります。

しかし後日、法律図書館でひとり訴訟の準備を進めるアンドリューと再会します。

そこでジョーが目にしたのは、病気を理由に周囲から距離を置かれ、冷たい視線を浴びながらも、自分自身の尊厳を守ろうとするアンドリューの姿でした。

やがてジョーは、彼の弁護を引き受けることを決意します。

こうして二人は、巨大法律事務所を相手にした法廷闘争へと踏み出していきます。

 

感想

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『フィラデルフィア』を観て最も強く感じたのは、この映画が描いているのは単なる「不当解雇裁判」ではないということでした。

もちろん物語の中心にあるのは、AIDSを理由に解雇されたアンドリューと法律事務所との闘いです。

しかし、それ以上に心に残るのは、アンドリューとジョーという二人の人間の距離が少しずつ縮まっていく過程です。

そして、その変化があるからこそ、最後の悲しさの中にも不思議な温かさが残る作品になっているのだと思います。

アンドリューが勤めていた法律事務所の行動には、観ていて強い憤りを感じました。

彼らは正面から「AIDSだから解雇する」とは言いません。

アンドリューの能力不足を理由にし、重要書類が一時的に紛失した出来事を利用して、あくまでも業務上の問題として処理しようとします。

しかし、ここには大きな矛盾があります。

本当にアンドリューが無能な弁護士だったのであれば、なぜ事務所は彼にそれほど重要な案件を任せていたのでしょうか。

それまで能力を認めていた人物を、病気を知った途端に「能力不足だった」と語り始める。

この構図こそが、本作の法廷劇を非常に苦々しいものにしています。

差別は必ずしも、露骨な言葉として現れるわけではありません。

もっと合理的に見える理由や、もっともらしい説明の陰に隠れることがあります。

『フィラデルフィア』が描いているのは、まさにその怖さなのだと思います。

ただ、本作は偏見を持つ人間を単純な悪人として描いているわけではありません。

その象徴がジョーです。

最初にアンドリューから依頼されたとき、ジョーは明らかに動揺しています。

彼は同性愛者に対して偏見を持っていますし、AIDSが日常的な接触で感染するのではないかという恐怖すら抱いています。

現代の知識から見れば間違った反応です。

しかし1990年代初頭という時代背景を考えると、こうした恐怖が社会に広く存在していたことも、この映画は隠しません。

重要なのは、ジョーが最初から「理解のある善人」ではないことです。

むしろ彼自身が、アンドリューを差別する社会の一部なのです。

だからこそ、彼の変化には意味があります。

ジョーがアンドリューの弁護を引き受けるきっかけとなる図書館の場面は、この映画の中でも特に重要だと思います。

アンドリューは誰にも弁護を引き受けてもらえず、自分自身で法律を調べています。

ところが周囲の人々は彼を見つめ、図書館員は遠回しに別室へ移ることを勧めます。

その瞬間、ジョーは「差別されているアンドリュー」を第三者として目撃します。

そして同時に、自分自身も彼らと同じ側に立っていたことに気づき始めるのです。

ジョーが突然すべての偏見を捨てたわけではありません。

そこがとても大切です。

人間の考え方は、スイッチのように一瞬で切り替わるものではありません。

それでも目の前にいる人間を知り、その痛みを知ることで、少しずつ変わっていくことはできる。

本作はそこに希望を置いているように感じました。

法廷でジョーがアンドリューにシャツを脱ぐよう求め、病変を陪審員に見せる場面は非常に重いシーンです。

裁判に勝つためには、事務所の人々が彼の症状に気づいていた可能性を証明しなければなりません。

そのためにアンドリューは、自分の病気によって変化した身体を人々の前にさらします。

それは証拠であると同時に、彼が社会から向けられてきた視線そのものでもあります。

病気を隠さなければ働くことができない。

しかし裁判で自分の権利を守るためには、その病気をさらさなければならない。

この矛盾はあまりにも残酷です。

それでもアンドリューは逃げません。

彼が求めているのは同情ではなく、ひとりの人間として公平に扱われることだからです。

被告側は、アンドリューがどのようにHIVに感染したのかを持ち出します。

そこには、「本人にも責任があるのだから同情されるべきではない」という論理が見え隠れしています。

しかし、この映画が問いかけているのはそこではありません。

アンドリューがどのような人生を送り、どのような経緯で病気になったとしても、それを理由に職場で差別されてよいわけではありません。

被害を受けた人間に対して、「その人は完全に無実なのか」「非難される要素は一つもないのか」と問い続けることで、差別そのものの問題がすり替えられてしまう。

『フィラデルフィア』は、アンドリューを聖人として描くのではなく、ひとりの人間として描くことで、むしろその問題を鮮明にしています。

そして終盤、病院を訪れたジョーがアンドリューの顔に触れる場面。

物語の序盤を思い返すと、この小さな仕草がどれほど大きな意味を持っているのかが分かります。

最初のジョーは、アンドリューと接触することすら恐れていました。

しかし最後には、自ら手を伸ばします。

言葉ではなく「触れる」という行為によって、ジョーの変化が示されます。

病気への恐怖が完全になくなったというだけではありません。

そこには、

「あなたは恐れる対象ではない」

「あなたは私と同じひとりの人間だ」

という思いまで込められているように感じました。

だからこの場面は、派手ではありませんがとても感動的です。

裁判ではアンドリュー側に有利な評決が下されます。

法廷映画であれば、本来ならここがクライマックスになり、そのまま勝利の余韻で終わることもできたでしょう。

しかし『フィラデルフィア』はそうしません。

アンドリューの病状は悪化しています。

裁判に勝っても、失われた健康は戻りません。

差別が認められたとしても、彼に残された時間が増えるわけでもありません。

ここが本作の最も悲しいところです。

それでもアンドリューの闘いは無意味ではありません。

彼が声を上げたことで、「病気だから」「同性愛者だから」という理由で人間の尊厳を奪うことは許されないという事実が、法廷で認められたからです。

そしてもうひとつ、確実に変わった人間がいます。

ジョーです。

社会全体を一度に変えることはできなくても、ひとりの人間との出会いが、別のひとりの人間を変えることはできる。

その小さな変化こそが、本作の希望なのだと思います。

ラストで流れるアンドリューの子ども時代のホームビデオも忘れられません。

裁判の中で彼は「同性愛者」「AIDS患者」「原告」として語られ続けました。

しかし最後に映し出されるのは、そんな肩書きを持つ以前のアンドリューです。

笑い、遊び、家族に愛されているひとりの子ども。

そこには病気も差別もありません。

ただ、ひとりの人間の人生があります。

このラストを見ると、『フィラデルフィア』という映画が最後まで守ろうとしていたものが分かる気がします。

それはアンドリューの勝訴だけではありません。

彼を病名や性的指向ではなく、「ひとりの人間」として記憶すること。

それこそが、この映画の最後のメッセージなのではないでしょうか。

 

演技|トム・ハンクスとデンゼル・ワシントン、二つの異なる闘い

トム・ハンクス|アンドリュー・ベケット

トム・ハンクスの演技は、本作の中心にあります。

病状が進行するにつれて身体は弱っていきますが、アンドリューの知性や誇りまで失われていくわけではありません。

特に素晴らしいのは、彼を単なる「かわいそうな人物」として演じていないことです。

怒りもあります。恐怖もあります。ユーモアもあり、仕事への誇りもあり、恋人や家族への愛情もあります。

病気によって人生のすべてが定義されている人物ではなく、病気を抱えながら生きているひとりの人間としてアンドリューを演じています。

だからこそ、終盤に向かって弱っていく姿がより胸に迫ります。

デンゼル・ワシントン|ジョー・ミラー

一方、デンゼル・ワシントンが演じるジョーは、観客に近い位置にいる人物なのかもしれません。

最初から正しい人物ではありません。

偏見もありますし、無知から来る恐怖もあります。

しかしアンドリューと過ごし、彼の家族を知り、彼の仕事への誇りを知り、彼自身を知ることで少しずつ変わっていきます。

デンゼル・ワシントンは、その変化を大げさに演じません。

表情や距離感、アンドリューへの接し方が少しずつ変化していきます。

そして最後の「触れる」という行為へつながっていく。

トム・ハンクスがアンドリューの尊厳を演じたとすれば、デンゼル・ワシントンは人間が偏見から抜け出していく可能性を演じたのだと思います。

二人の演技があるからこそ、『フィラデルフィア』は社会派映画であるだけでなく、人と人との関係を描いた温かなドラマにもなっています。

 

この映画がおすすめな人

  • 社会問題を扱った骨太な映画が好きな方
  • 『スポットライト 世紀のスクープ』のような社会派作品が好きな方
  • 法廷ドラマが好きな方
  • 差別や偏見について考えさせられる映画を観たい方
  • トム・ハンクス、デンゼル・ワシントンの演技を堪能したい方
  • 重いテーマの中にも人間同士の温かさがある作品を求めている方
  • 観終わったあとにも長く心に残る映画を探している方

評価

※評価は執筆時点のものです。

Filmarks:★ 3.7 / 5.0
IMDb:★ 7.7 / 10

 

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