2022年公開の『TAR/ター』は、現代映画界を代表する俳優ケイト・ブランシェットが圧倒的な存在感を放つ心理ドラマです。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団初の女性首席指揮者という栄光を手にしたリディア・ター。しかし、その完璧に見えた人生は、過去の行いによって少しずつ崩壊していきます。
本作は単なる音楽映画ではありません。権力、支配、欲望、そして現代社会における「キャンセルカルチャー」を鋭く描いた作品です。観る者に簡単な答えを与えず、「芸術と人格は切り離して考えられるのか」という難しい問いを投げかけてきます。
第95回アカデミー賞では作品賞を含む6部門にノミネートされ、特にケイト・ブランシェットの演技は年間ベスト級と絶賛されました。
あらすじ(ネタバレなし)
リディア・ターはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団初の女性首席指揮者であり、作曲家としても世界最高峰の評価を受ける存在でした。
同性パートナーのシャロンと娘のペトラと暮らしながら、音楽界の頂点に立つリディア。彼女は新たなマーラー交響曲第5番の録音に向けて準備を進めていました。
しかし、かつての教え子クリスタの自殺をきっかけに、彼女の過去に隠されていた問題が表面化していきます。
若い女性音楽家たちとの不適切な関係、権力を利用した人事操作、そして長年積み重ねてきた支配的な振る舞い。
少しずつ明らかになっていく真実は、世界的指揮者として築き上げた名声を揺るがし始めます。
やがてリディアは、自らが作り上げた世界そのものに追い詰められていくのでした――。
感想
※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。
『TAR/ター』は、指揮者の成功物語でも音楽家の伝記映画でもありません。
本作が描いているのは、一人の絶対的な権力者がゆっくりと失墜していく姿です。
リディアは女性として男性中心だったクラシック音楽界の頂点に立ちました。しかし、その立場を得た彼女は、自らがかつて向き合ってきたはずの権力構造を再生産してしまいます。
若い女性音楽家を囲い込み、気に入った人材を引き上げ、逆らった者を排除する。
彼女が行っていたことは、これまで男性権力者たちが繰り返してきた行為と本質的には変わりません。
だからこそ、この映画は単純な被害者と加害者の物語ではなく、「権力そのもの」の危うさを描いているように感じました。
また、本作を語る上で避けて通れないのがキャンセルカルチャーの問題です。
もちろんリディアの行為は許されるものではありません。
しかし同時に、SNSやネット社会によって一気に社会的地位を失っていく姿には、現代特有の恐ろしさも描かれていました。
ジュリアード音楽院での講義映像が編集されて拡散される場面は象徴的です。
本来の文脈が失われた状態で切り取られた映像が真実として流通し、人々はそれを疑うことなく消費していく。
その光景は映画の中だけの話とは思えませんでした。
本作で特に印象的だったのは、映画開始直後にエンドロールが流れる演出です。
初めて観た時は驚きました。
しかしこれは近年の配信サービス文化への監督なりのメッセージだったのではないでしょうか。
私たちはオープニングやエンドロールを簡単にスキップできる時代に生きています。
けれど映画は監督だけで作られるものではありません。
数え切れないスタッフたちの仕事によって完成しています。
だからこそ最初にスタッフクレジットを提示することで、「まずこの映画を作った人たちを見てほしい」という意志を感じました。
作品のテーマである権力構造ともどこか重なって見える興味深い演出でした。
終盤、全てを失ったリディアはフィリピンで仕事を得ます。
その時に訪れたマッサージ店の場面は、本作の中でも特に重要なシーンでした。
そこには番号札を付けた若い女性たちが並んでいます。
まるで商品を選ぶかのような光景です。
そして女性の一人と目が合った直後、リディアは外へ飛び出して嘔吐します。
私はこの瞬間、彼女が初めて自分自身を客観的に見たのではないかと感じました。
これまで若い女性たちを「才能」や「可能性」という言葉で評価しながら、実際には自分の欲望や支配欲を満たす対象として見ていた。
その構図が目の前で露骨な形になった時、初めて自分の行為の本質を理解したのではないでしょうか。
だからこその嘔吐だったように思えます。
ラストでリディアはゲーム『モンスターハンター』のオーケストラ公演を指揮しています。
一見すると世界最高峰の指揮者が転落したように見える結末です。
しかし私は必ずしもそうは思いませんでした。
確かにベルリン・フィルの指揮台ではありません。
マーラーでもありません。
けれど彼女は再び音楽と向き合っています。
観客はコスプレ姿のファンたちでしたが、その人々もまた純粋に音楽を愛している存在です。
権威や名声を失った先で、それでも音楽を続ける。
それはある意味でリディアが初めて「肩書きではない音楽」と向き合えた瞬間だったのかもしれません。
演技
ケイト・ブランシェット
本作最大の見どころは間違いなくケイト・ブランシェットです。
圧倒的な知性と威厳、そして徐々に崩壊していく精神状態まで、全てを完璧に演じ切っています。
リディアが部屋に入っただけで空気が変わるような存在感は圧巻でした。
アカデミー主演女優賞を受賞していても全く不思議ではない名演です。
ノエミ・メルラン
フランチェスカを演じたノエミ・メルランも非常に印象的でした。
献身的な秘書として支えていた彼女が、失望によって徐々に距離を置いていく姿には複雑な感情が滲みます。
決して感情を大きく爆発させる役ではありませんが、その静かな怒りと傷つきが作品全体に大きな影響を与えていました。
この映画がおすすめなひと
- 心理ドラマや人物描写を重視する方
- ケイト・ブランシェットの演技を堪能したい方
- 芸術と人格の関係について考えたい方
- 『ブラック・スワン』や『ファーザー』のような作品が好きな方
- キャンセルカルチャーや現代社会の問題に興味がある方
評価
※評価は執筆時点のものです。
- Filmarks:★★★★☆ 3.8 / 5.0
- IMDb:★★★★☆ 7.4 / 10
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