Cinematelier ─ 映画のアトリエ

名作からコア作品まで、余韻を大切に綴る映画ノート

『ザ・ホエール(The Whale)』― それでも、人を信じたかった

 

人はどこまで自分を許せるのでしょうか。

『ザ・ホエール』は、病的肥満によって外の世界から閉ざされた男チャーリーの人生最後の数日間を描いた作品です。

主演の ブレンダン・フレイザー は本作で見事な復活を遂げ、第95回アカデミー賞主演男優賞を受賞しました。

一見すると「病的肥満の男性を描いた物語」に思えるかもしれません。しかし本作の本質は、親子の断絶と再生、愛する人を失った悲しみ、そして「人は本当に変われるのか」という問いにあります。

舞台はほぼアパートの一室のみ。それにもかかわらず、観終わった後には一本の壮大な人生を見届けたような感覚が残る作品です。

 

あらすじ(ネタバレなし)

病的肥満によって外出もままならなくなった英語教師チャーリーは、自宅からオンライン授業を行っていた。

自身の外見に強い羞恥心を抱いている彼は、授業中も常にウェブカメラをオフにしている。唯一の理解者は看護師のリズだけだったが、彼女の勧める治療も拒み続けていた。

そんなある日、チャーリーは8年間会っていなかった娘エリーとの再会を決意する。

かつてチャーリーは妻と娘を残し、男性の恋人アランとの人生を選んだ。その結果、家族との関係は完全に壊れてしまっていた。

死期が近いことを悟ったチャーリーは、残された時間の中で娘との関係を修復しようとする。しかし、エリーの怒りと憎しみは想像以上に深く、二人の距離は簡単には埋まらない。

果たしてチャーリーは人生最後の瞬間に、娘へ本当の想いを伝えることができるのだろうか――。

 

感想・考察

※ここからは作品の核心に触れる内容を含みます。

『ザ・ホエール』は非常に多面的な作品です。

表面的には、家族を捨てた父親の贖罪の物語として観ることができます。しかし、それだけではありません。

同性の恋人を愛したことで人生が大きく変わってしまった男の物語でもあり、最愛の人を失った悲しみに押し潰された男の物語でもあり、父と娘の再生の物語でもあります。

そして何より、「それでも人は善良だと信じたい」というチャーリーの祈りのような物語でした。

チャーリーは決して善人ではありません。

妻を傷つけ、幼い娘を置き去りにしました。その結果としてエリーが深い怒りを抱えて育ったのも当然でしょう。

だからこそ本作は安易な感動作になりません。

チャーリーは自分の過去を正当化しませんし、「本当は仕方なかった」とも言いません。ただひたすら後悔しながら生きています。

その姿は痛々しいほど人間的です。

特に印象的だったのは、彼がエリーの書いた『白鯨(Moby-Dick)』についてのエッセイを宝物のように持ち続けていたことです。

彼は娘を捨てました。

しかし娘への愛情だけは失っていなかった。

だからこそ、彼女の書いた文章を何年も読み返し続けていたのでしょう。

本作で何度も繰り返される「正直さ(honesty)」というテーマも非常に重要です。

チャーリーは生徒たちにも、エリーにも、「正直な言葉」を求め続けます。

終盤でオンライン授業のカメラを初めてオンにする場面は、本作屈指の名シーンでした。

ずっと隠し続けてきた自分の姿をさらしながら、

「大学なんて重要じゃない。君たちが書いた正直な言葉が大事なんだ」

と伝える姿には、人生の最後になってようやく自分自身と向き合えた人間の強さがありました。

また、本作は「悲しみが人を壊す」ということも容赦なく描いています。

チャーリーが病的肥満になった理由は、アランを失った悲しみから逃れるためでした。

強烈なストレスや喪失感が過食へと繋がる描写は決して大げさではなく、観ていて胸が苦しくなります。

誰しも心の痛みから逃げたいと思う瞬間があります。

チャーリーの場合、それが食べることだっただけなのです。

だから彼の姿は他人事には見えません。

そしてラスト。

エリーがエッセイを読み上げる中、チャーリーは立ち上がり、娘のもとへ歩いていきます。

白い光に包まれていくその姿は現実的というよりも寓話的で、まるで『白鯨』そのもののようでした。

彼が本当に歩いたのか。

あるいは死の間際に見た幻想だったのか。

答えは示されません。

ですが少なくとも、彼は最後の瞬間に娘と心を通わせることができた。

だからこそ、あのラストは悲劇でありながら、不思議な救いにも満ちているのだと思います。

アパートの一室だけで展開する物語でありながら、親子関係、宗教、罪悪感、喪失、赦し、生きる意味といった数多くのテーマを内包した本作は、まさに現代の演劇作品のような濃密さを持っています。

観終わった後もしばらく胸に残り続ける一本でした。

 

演技

ブレンダン・フレイザー(チャーリー役)

本作最大の見どころです。

特殊メイクによる外見的な変化も圧巻ですが、本当に素晴らしいのはその内面表現でした。

娘への愛情、後悔、孤独、優しさ、絶望。

それらを静かな表情だけで表現しており、まさにアカデミー賞受賞にふさわしい名演です。

セイディー・シンク(エリー役)

怒りに満ちた少女を見事に演じています。

ただ反抗的なのではなく、傷つき続けた子どもの痛みが伝わってきます。

終盤で見せるわずかな感情の変化も素晴らしく、チャーリーとの場面は作品の心臓部になっています。

ホン・チャウ(リズ役)

チャーリーを支え続けるリズは、本作で最も複雑な立場の人物です。

愛情と怒り、献身と諦めが同居する難しい役柄を見事に表現しています。

彼女の存在があったからこそ、チャーリーという人物がより立体的に見えました。

 

この映画がおすすめなひと

  • 重厚な人間ドラマが好きな方
  • 親子関係を描いた作品が好きな方
  • 舞台劇のような濃密な会話劇を楽しみたい方
  • ブレンダン・フレイザーの名演を観たい方
  • 観終わった後に深く考えさせられる映画を求めている方

評価

※評価は執筆時点のものです。

  • Filmarks:★☆ 3.8 / 5.0
  • IMDb:★☆ 7.6 / 10

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ザ・ホエール(字幕版)

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